知覚の停止

最近、一般的なセラピーに関連したことをあまり書かなくなったなあと思って、たまには書いて見ようかとも思うのですが、そうするとなかなか筆が進まなくて…。

それはきっと、自分が日頃意識している事柄の方に目が向いてしまっているからなのでしょうね。本当はいくらでもネタはあるはずなのですが。

というわけで、今日もことによるとちょっと理解しづらいような内容になってしまうかもしれませんが、とても大切なことだと思うことを書いてみます。

この「私」を存続させているのは、我々がそれに頼りきってしまっている知覚であることは疑いようのない事実ですね。

もしも今この瞬間に知覚が途絶えてしまったらどうなってしまうのか、想像することすらできません。ところが一つだけ、その体験を誰でもがしています。

それは、眠っているときです。夢を見ることもなく、熟睡しているときというのは、完全に知覚が停止状態になっています。だからこそ、その間は、「私」も不在となるのです。

知覚することが、知覚する人と知覚されるものを同時に生み出すのです。このことは、意外と理解されていません。

知覚することがない状態においては、知覚する人もされるものもどちらも存在することができないということです。

だからこそ、熟睡している間は、知覚されるものであるこの世界全体も不在となっているということです。このことは、よくよく理解しておく必要があります。

この「私」も、この世界も、知覚するという行為なしには存在しないということです。ということは、この「私」も、この世界も本当には実在するものではないということになります。

つまり、それが幻想だということです。実在とは、永遠に在り続けるものでなければならないからです。来ては去っていくようなものは、それが何であれ時間の束縛のなかにあるものです。

知覚を完全に停止した状態においても、純粋な意識としての気づきだけが残るということを体験することができたら、それこそが実在としての本当の自分であるということです。

「私」という人物

私たちは誰もが気が付くと、一人の人物として生きています。それほど自覚がないままに、気づくと他人からも一人の人物として認められるようになっています。

この人物というのは、一体どのようにして出来上がるものなのかということについて、少し考えて見たいと思います。

まず、生きていれば毎日が様々な体験の連続であって、その体験の中から印象に残るものだけをピックアップして記憶の中に溜め込んでいくのです。

その一つひとつの記憶を、地道に積み上げていくことで全体として人物が出来上がるわけですね。したがって、どんな体験を印象的に記憶してきたかということが、どんな人物になるかということと深く関係があるということになります。

体験は、本人に起こる外的な事象だけではなくて、そのことに対する本人の反応も含めて大切に保管されていくのです。

そのすべてが知覚に全面的に委ねられているということが分かります。我々はあらゆる体験を知覚を通して経験するからです。

そして、知覚の中には、判断や反応も含まれるのです。そうした、判断や反応も、それまでの体験が元となってどのような反応をするかが決定されるのです。

しかも、知覚というのは私たちがでっち上げたものであって、事実をあるがままに知覚するということはほとんどありません。

自分に都合のいいように捏造することがほとんどだということを考えると、結局、作り出された人物というのは、見えない計画に沿ってただ出来上がっていくものだということが見えてきます。

つまり、人物の出来上がりというのは、決して偶然に任されているわけではないということです。あなたがどんな人物なのかということは、あなたが生まれたときから決まっていたとも言えるのです。

このことが分かったら、もう自分を何とかしようともがいたりして、余計な努力やエネルギーを費やすことが無意味だと分かります。

ただ、自分に与えられたものをすべてそのままに受け入れて、淡々と過ごすことができたら、それが結果として最も穏やかで気持ちのいい人生になるはずです。

自由への欲望

昨日のブログでは、私たちの生活のほとんどすべてが、快楽への飽くなき欲望と、苦悩を排除しようとする恐怖で成り立っているということをお話ししました。

そして欲望そのものが決して悪いことではなく、いたって正当なことだということについてもお伝えしました。欲望は決してなくならないものです。

あらゆる欲望は、一口で表現すれば、足りないものを手に入れたいという欲求であることが分かります。その欠乏感にはきりがなく、完全に満たされるということはないのです。

したがって、欲望のエネルギーが尽きることもないというわけです。健康な身体を持ちたい、人から高い評価を得たい、何かを成し遂げたい、欲しいものを手に入れたい、好きな人と一緒にいたい等々、挙げればきりがありませんね。

でもそれらを求めるあまりに、その反対方向である苦悩がやってくることになるということを私たちは決して忘れるべきではありません。

欲望(快楽)と恐怖(苦悩)とは、必ずコインの裏表のように一対になっているのです。その往復運動から抜け出すために、一つだけ特別な欲望があります。

それは、真の自由への欲望です。このいつ果てるともなく続く往復運動から、開放されるということ以外に真の自由はありません。

したがって、それを求めることが、自由への欲望であると言えるのです。これは、他のあらゆる欲望と違って、最終的には苦悩から脱出することを可能にするのです。

なぜなら、何が自分の自由を奪っているのかということについて、探求することになるからです。そしてその結果は、欲望と恐怖の往復運動を強いているものの正体を突き止めることになります。

それが、「私」という想念です。この「私」がここにいるということこそが、あらゆる束縛の大元であるのです。

「私」が人生の中心人物であるということこそが、「私」という名の牢獄に閉じ込めている張本人であるということです。

もしも、その架空の牢獄から脱出することができたとしたら、その瞬間に「私」そのものが単なる想念であったということに気づくことになるのです。

そして、後に残るものは、永遠の中で実在する真の自己としての気づき、それを何と呼ぼうがそれこそが、本当の本当の自己であり、生まれることも死ぬこともない真実の私たちの姿なのです。

エゴへの投資

私たちは、毎日この人生であるものに必死で投資しています。来る日も来る日も果てしなくそれに投資し続けているのです。

そのあるものとは、勿論「私」つまりエゴに対する投資です。投資とは、それにお金や労力や時間などのあらゆるエネルギーをつぎ込むことですね。

そしてその投資の目的とは、常に何らかの方法でそれを救うということと深く関係しているのです。

つまり、「私」という想念であるエゴをいつも救うことに全エネルギーを投資しているということです。具体的には、欲望と恐怖を使って。

欲望とは快楽を手に入れようとすることへの執着であり、恐怖とは苦悩を排除しようとすることへの執着です。その二つの執着によって、エゴを救えると信じているのです。

それが私たちの人生だと深く気づくことがとても大切なことです。そして、それを理解することができたら、その先に気づかねばならない最も大切なことがあります。

それは、あなたに恐れや欲望が起こったときに、誤りであり去らなければならないのは、欲望や恐れではなく、欲望をもったり恐れたりする個人なのだということです。

欲望や恐れは完全に自然で正当なものかもしれないのです。そして、それらと闘うことは要点をはずしていると言わざるを得ません。

それらによって動揺させられる個人が、過去と未来における誤りの原因なのだということです。自分のことを個人だと信じる限りは、欲望と恐怖の罠から抜け出すことはできません。

それこそが、無限に続く輪廻の罠だと言ってもいいかもしれません。 このことを理解することができたら、エゴへの投資をやめて、自分の本質に気づくことにのみ投資をする決意をすることです。

といっても、深刻に考える必要はありません。個人だと自分を信じ込ませているこの「私」の正体を見切ってあげればいいのです。そうすれば、それは必ず本当の自己の中へと解けていくはずです。

瞑想の勧め

あまり好きでも得意でもないと感じていた瞑想を、最近はよくするようになりました。もしかしたら、生真面目さが取れたからかもしれません。

以前は、朝起きてすぐに決まった時間だけやるというのを習慣付けてやっていたことがあったのですが、それは結局2年くらいしか続きませんでした。

近頃の傾向は、何の計画もないままに、ただソファに腰掛けて気づくと瞑想の中に入っているといったような形になってきました。

それが功を奏しているのかもしれませんが、瞑想のメリットばかりを感じられるようになってきたので、とてもいい具合なのです。

夜ともなると、少し気候が冷えてきたにもかかわらず、瞑想しだすと身体がポカポカしてきて、冷たいと感じていたつま先なども暖かくなってくれます。

瞑想の本当の目的は、瞑想している「私」が消滅することなのですが、それはまだまだとても実現しそうにないので、気楽に気張らずにやっています。

どこまでいっても、「私」は居残り続けますね。ただし、いろいろなことが分かってきたことも事実としてあります。

一つは、日頃自分の意識というのは、荒いゴツゴツしたものから、精妙なものまでを含む意識のエネルギースペクトラムとでも言ったもので出来ているのだと分かったのです。

瞑想しつつ、次第に意識が深いところに進んで行くにつれて、荒削りの意識が徐々に落ちていって、より精妙な意識のエネルギーになっていくのです。

そうした静かで精妙な意識というのは、実はずっと在り続けているものなのですが、どうも気持ちが外側に向かっているときには、気づけなくなっているらしいのです。

それは例えて言えば、小さくてかすかな鈴の音がずっとしているのに、大音量のロックが流れているから聞こえてこないというようなものと同じなのです。

荒い波動の意識で生活していると、精妙な波動の意識に気づくことができないのです。それが、瞑想によってとても静かで穏やかな意識だけがクローズアップされてくる感じなのです。

それはとても心地いいものです。そして、それにあわせるようにして、明らかに脳内快感物質が繰り返し分泌されるのをはっきりと感じることもできます。

何も決めずに、気楽な感覚でやりたいときだけやるといった瞑想を、今後も続けていけたらいいなと思っています。みなさんにも、お勧めです。
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あらゆるものの背後にある「場」

昨日のブログでは、自分が身体ではないなら、次のような感覚になるということをお話ししました。それは、「自分はどこにもいない」=「自分はあらゆるところに偏在している」ということ。

偏在するとは、どこにでも在るということですから、自分はこの世界のどこにでも在るということになり、つまりそれは、自分がこの世界そのものだと言うことになるかもしれません。

しかし、ちょっと待ってください。この世界といっても、私たちは一体どの程度目の前に広がっていると思い込んでいるものを知っているでしょうか?

今、地球の裏側で何が起きているか、ニュースやネットなどで知る以外には、直接見ることもできません。

だとすれば、私たちがこの世界と言う場合に想定しているものが、自分であるということではなさそうですね。

もっと簡単に言えば、今この瞬間自分が見ている世界こそが自分そのものだというようにすればいいわけです。

しかしここでも、困ったことが一つあります。それは、見る場所を変えれば世界の様相が瞬時に変化してしまいます。

クルマを運転しているときには、この世界は道路や行き交う人々になり、部屋で一人読書をしているときには、本のページ上の活字だったり部屋の景色となります。

つまり、刻々と自分であるこの世界はその姿を変え続けるのです。その目まぐるしく変化するすべてが自分だと思ってもいいかもしれません。

しかし、よく見つめてみると、その世界の姿の背後にいつも変わらないものがあることに気が付きます。それは、世界が様々な形で現象化する「場」です。

それはこの世界として何が見えてきたとしても、いつも変わらずに在るものですね。その世界が立ち上がってくる「場」こそが自分の本質だということもできます。

それはいつでも変わらずに在りつづけるのです。たとえ、人類が滅びてしまっても、地球がなくなったとしても、それは永遠に在るのです。それが、本当の私です。

内側と外側

もしも、自分が身体ではないとしたら、身体の内側と外側という概念に意味を持たせることができなくなってしまうのは自明です。

自分が肉体であるとの強い思い込みがあればこそ、自分とはこの肉体の内側の小さなエリアのことだし、肉体の外側には自分ではない広大な世界が広がっているという認識となるわけです。

赤ちゃんも私たちと同様にして、目を見開いてこの世界を見ているのですが、自分の外側に広がっている世界を見ているという認識はありません。

なぜなら、自分が肉体だという思い込みがまだ出来上がってないからです。つまり、内側も外側もない状態で生きているということです。

これは、赤ちゃんだけでなく、あらゆる動物も同じです。人間だけが、3歳くらいの頃から、どうやらこの身体が自分なのだという想念が生まれてきます。

この身体と自分の同一視こそが、ここに私がいるという、「私」という想念が生み出される結果を作り上げるのです。

そうやって、徐々にではあるものの、自分はこの小さな身体の内側だし、自分の外側には大きな得体の知れない世界があると思うようになるのです。

そして、そのことは決して信じて疑わないくらいに、強固なものとして自分の中で信じ込むことになるのです。それはもう本人にとって、真実となってしまいます。

一般的には、この内側と外側の世界が在るということを、疑ってかかる人は少ないかもしれませんが、世の中には物好きもいて、本当にそうなのかとやる人がいるということです。

私もそのうちの一人です。そしてその疑いは日増しに強くなっていって、最近では本当の自分は身体でもなければ、あれでもこれでもない、何もないものだということが分かってきました。

今すぐにでも、内側も外側もないということを感じることができます。そのときの感覚をあえて言葉で表現すると、「自分はどこにもいない」=「自分はあらゆるところに偏在している」となります。

そしてそれは一種独特の感覚であって、快感でもなければ苦悩でもない、ただ在るという感覚が一番近いかもしれません。そしてそれは、平安であり、静寂でもあるのです。

もしもあなたが何かに苦悩しているなら、それは自分は身体だとの思い込みが原因です。自分がどこにもいなければ、傷つく対象もないので苦悩は起きません。

それでも不思議なことに、自分という気づきだけは純粋な意識として残ります。だから、本当に実在しなくなるのではないので、安心して下さい。

本当の自分とは、「無」だとの気づきとして、永遠不滅の実在なんです。だから何事も深刻になる必要などさらさらないということを分かって欲しいです。

放心状態

一般的な表現として、たとえば長く付き合っていた彼氏にふられて放心状態になってしまったなどと言うことがありますね。

それは、この目の前にある現実の世界よりもショックを受けた事象に心が巻き込まれた状態のままになっているということを意味しています。

その過去の事象が感動的なことであれ、苦しいことであれ、いずれにしてもそこから心が離れなくなってしまっている状態を指します。

しかし、「放心」といっているのですから、つまり心を放つと書いているということは、本来読んで字のごとく解釈しなければならないはずです。

そこを忠実に捉えれば、放心状態とはあれこれと心を使わずに、心を解き放つ、あるいは心そのものから解き放たれた状態を意味するとも言えます。

その状態の人が、もしも目を見開いているとしても、それはどこかに焦点を当てているわけではなくて、虚空を見つめているような感じになるはずです。

20世紀の代表的な賢者と言われた、インドのラマナ・マハルシは何時間でも沈黙して、目は一点を見つめているようにしていても、何も見ていない状態だったそうです。

それはまさしく、放心している状態だったからですね。心をなくした状態になるためには、その心を生み出している「私」が不在にならなければなりません。

心を静かにして、その「私」を見つめていると、その見つめている「私」そのものを感じることができますが、それは主に言葉を使っている想念のようです。

それともう一つ、自分の場合に限定されるかもしれませんが、メロディを奏で続けようとする想念も脇に常にあることに気づきます。

言葉と音楽、これが一向に消える気配がありません。なかなか、しぶといですが、それ以外の想念は全く出なくなるので、ここを探求して行こうと思っています。

ただ「今」に佇む

私たちは、一日のうちに一体どれだけの数の想念が心の中から沸き起こってくるのでしょうか?心を静かに出来る人と、そうでない人とで大きな違いがあるかもしれません。

しかし、どちらにしても膨大な数であることは間違いないところですね。何も思い浮かべない状態でどれだけの間いられるものか、想像してみれば分かります。

もう無数の想念が立ち上がって、それらはとっかえひっかえやってきては去っていくのです。ただ通り過ぎる想念もあるし、巻き込まれていってしまう想念もあります。

想念はすべて過去がベースとなってやってきます。その内容が、たとえ未来にまつわることであったとしても、根っこは過去なのです。

例えば、ほとんど過去を持たない赤ちゃんの場合には、蛇を見てもそこから想念を作り出すことはできません。

ところが、少し成長すると、急に蛇を見ると怖がるようになってしまうのは、誰かが蛇を怖がる様子を見た体験を想起するからなのです。

だから、現在のことを見ているとしても、その反応は過去のことがベースとなっているのです。逆に言えば、記憶を持ってなければ想念は浮かんでこないはずです。

私たちは、体験したことの中で印象に残るものをピックアップして、特別に記憶の中へとしまい込むのです。すべての体験を蓄積するわけではありません。

そうやって、作られた記憶という想念を元にして、次から次へと新たな想念を生み出すことになるのです。それは、すべての想念の源である「私」という想念に意識を向けなくさせるためです。

しかし、過去から意識を離すようにして、ただ、「今」だけを感じるようにすると、そうした過去からやってくる想念のすべてを消し去ることができるのです。

だから、「今」は魔法のように、心を静かにすることが出来ます。「今」はいつだって、自分と一緒にいてくれるのですが、我々はそれを見ようともしないのですから、勿体無い話しですね。

真珠婚式

私事なのですが、今日11月1日は30年目の結婚記念日なんです。今、「結婚記念日」で検索してみたのですが、30年目は「真珠婚式」というらしいですね。

ちなみに、よく耳にする銀婚式は、25年目、金婚式はなんと50年目だそうです。やばい、銀婚式はとうに過ぎていたのか…。

歳もとるし、ふけもするはずです。銀婚式をゆうに超えていたとは。我ながら継続は何とかと言いますし、そこそこすごいなあと。

今の仕事をするようになって、もうすぐ丸11年が経とうとしていますので、結婚生活のうちの三分の一に相当するのですね。

自分の中では、まだまだ新米セラピストだという感覚が強いのですが、それはサラリーマン生活が長かったからかもしれません。

しかし、人間て時間じゃないというのは本当ですね。22年間のサラリーマンの時代と比較して、その半分であるセラピストになってからの期間の気づきは、とても比較できないくらいです。

期間は半分でも、気づきは一万倍以上あるかもしれません。正直言って、サラリーマン時代の自分の人生は不遇でした。

サラリーマンであることや、勤めた会社が悪いということではまったくなく、ただ自分の精神状態がよくなかったということに過ぎません。

それはあまりに忙しすぎて、自分を見つめる時間がなかったことが一番の原因かもしれないですが、そうした環境になってしまったのも自分のなせる業だと今では分かります。

自分を真正面から見つめることに恐れを感じている人は、大抵多忙を極めています。忙しくすることで目を逸らしていることを正当化できるからですね。

セラピストになって、その真逆、いやというほど自分を見せ付けられる生活を日々送ることになったのです。それはすべて、クライアントさんのおかげなわけです。

セラピストになって、ド貧乏生活になりましたが、今日くらいは夫婦でささやかな食事会をしようと思っています。我が奥様、30年間ご苦労様そしてありがとう!