無邪気に遊んでいる子供の心には、何の目的もありはしませんね。子供には、何に価値があるとか、明日どうなるなどの思考が明確にはないのです。
ところが、人は成長するにつれて、何をするにもそこに理由が必要になるのです。つまり、何かのため、何かを成し遂げるため、目標を達成するためなど…。
その成し遂げたことにどれだけの価値があるのか、どんな素晴らしい意味があるのかということを常に気にするようになるのです。それがエゴなのです。
エゴは成し遂げ屋さんなのです。人の心の中にある野心とは、まさにこのエゴの成し遂げ屋のエネルギーが活発な状態であるということなのです。
その野心が、俗物的であろうが、流行りのスピリチュアルなものであろうが、そこには何の違いもありません。株で大儲けしようとすることと、崇高な人格になろうとすることは、どちらも成し遂げ屋のパワーなのです。
まだ野心が俗物的な欲望の方に向いている場合には、本人もそこにエゴが見え隠れしているという自覚があるので、自体は単純なのです。
一方、スピリチュアルに目覚めた人が成し遂げ屋として活動している場合には、なかなか厄介な状態であると言えるのです。なぜなら、本人は一向に自分の原動力がエゴであるとは気づかないからです。
スピリチュアルな欲求は清いものだと思ったり、気高い志しで人を助けようと画策してみたり、自分は愛の塊りだとばかりに、人類の救世主になろうとしたり…。
逆に、あなたがどんなことをしようとも、あなたの日々の活動の中心にあなたがいなければいいのです。自分の活動をただ見ている自分であればいいということです。
もしもあなたが人生の牽引者であったり、リーダーシップを発揮しているのなら、要注意なのです。自分の中に潜んでいる、成し遂げ屋にいつも気を付けていることですね。
成し遂げ屋として生きて、満たされるということは原理的に不可能であることを忘れないことです。