導師になる人は…

現代のこの世界においては、光明を得た人を捜すのは、とても大変なことかもしれませんね。少なくとも、私自身は今この瞬間そのような人がどこにもいないと感じていますので…。

その上で、osho によると光明を得た人のうちで、9割の人は即死するということです。え、どういうこと?と思われるかもしれませんが、どうやら身体がもたないらしいのです。

人の肉体は、光明を得た後の状態に追随できるようにはできていないと考えるのが妥当のようなのです。したがって、悟った後に生き残るのはたったの1割の人だということです。

更に、その1割の人たちの中で、9割の人たちは脳への支配力を失ってしまうということです。要するに、生きているとはいえ、沈黙したままの状態になってしまうということ。

そのくらい、脳がダメージを負ってしまうということです。結果として、大脳が生き延びて、外側から見てごく普通の生活ができる人は、光明を得た人のうちのたった1%だということです。

百人の内のたった一人だけが、悟りを得た後にも肉体の死を迎えるまでの間、外見上は人として普通に生活することができるということです。

そして、もっと言えばその1%の中でも、ブッダやイエス、あるいは osho のように導師になる人というのは、そのまた一割しかいないのだそうです。

要するに、光明を得る人はごくごく稀な存在なのに、その中で導師になれるような人というのは、千人に一人くらいの割合となってしまうということです。

なんとも、貴重な存在なのですね。きっと数十億人に一人いるかどうかという確率なのかもしれません。

身体を離れる

– osho –

身体になにか痛みがある時、身体全体を忘れ、痛い部分にだけ集中する。すると奇妙なことに気づくだろう。痛い部分に集中すると、その部分が小さくなっていくのだ。最初は脚全体が痛いと感じる。だが集中すると、それが脚全体ではなくなってしまう。つまり誇張だったのだ。痛んでいるのは膝だけだ。

さらに集中する。するとそれが膝全体ではなくなり、針先ほどの点になっていく。さらにその針先の点に集中する。身体全体を忘れる。目を閉じて集中を続け、その痛みがどこにあるか捜してみる。すると痛みはどんどん縮小していく。その範囲はますます小さくなる。そのうち痛みはただ針先ほどの点になる。その針先の点を見つめ続ける。すると突然その針先の点は消え失せ、あなたは至福に満たされる。痛みの代わりに、至福にみたされる。

なぜこんなことが起こるのか。それは、あなたと身体とが別々であって、同一のものではないからだ。集中している者があなただ。集中は身体に対して行われている。身体は対象だ。集中すれば、その隙間は拡げられる、つまり同化が壊される。集中することによって、あなたは内側へと向かい、身体を離れる。痛んでいる箇所を眺めるためには、離れる必要がある。そのように離れることによって隙間が生まれる。痛みに集中すれば、あなたはその同化を忘れ、また「私は痛みを感じている」ということも忘れる。

今あなたは観察者であり、その痛みはほかのところにある。あなたはその痛みを観察している--痛みを感じているのではない。『感じることから観察することへ』のこの変化が隙間を生む。そしてその隙間が大きくなったら、突然あなたは身体をすっかり忘れ去る。あなたは意識だけを自覚している。

いったん自分が身体ではないと知ったら、あなたの生は完全に変わる。あなたの生はすべて身体を中心にして存在している。いったん自分が身体ではないと知ったら、この生を続けることができなくなる。中心がなくなってしまう。

自分が身体ではないとしたら、違った生を創らなくてはいけない。その生は探求者の生だ。違った生だ。中心が違ってくる。そしてあなたは世界の中で、魂として存在するようになる。身体としてではない。もし身体として存在したら、そのときあなたの創造するものは別の世界だ--物質的損得の、貪欲の、悦楽の、情欲の、セックスの世界だ。あなたが自分のまわりに創造している世界、それは身体指向の世界だ。

いったん自分が身体でないと知ったら、あなたの世界全体は消え失せる・・・もうその世界は維持できなくなる。そして魂を取り巻く別の世界が現れる--それは慈悲の、愛の、美の、真実の、善の、無垢の世界だ。

中心は移動した。もう身体にはない。意識の中にある。

瞑想と睡眠

みなさんは、睡眠中によく夢を見る方でしょうか?それとも、あまり夢を見ない方でしょうか?人によっては、ほとんど夢を見ないという場合もあるでしょうね。

けれども、実は誰でも夢は見ているのです。これは、科学的な実験によって明らかになっていることのようですね。ということは、夢をあまり見ない、あるいは全然見ないと思っている人でも、実は夢見は起きているということです。

夢を見ている本人が、その夢を覚醒後覚えているかどうかの違いがあるということのようですね。で、この夢というのは実は思考なのです。それも言語を伴わない画像(絵)による思考なのです。

言葉をまだ学習していない赤ちゃんや、言語を知らない動物も実は夢は見るのですが、それは夢というものが元々言葉を使わない思考だからなのです。

私たちは目覚めているときには、言葉を使って思考しますね。言葉はそのまま思考であると言っても過言ではありません。目覚めている間に言葉なくして、思考することはできないからです。

つまり、目覚めているときには、言葉を使って思考し、眠っている間には画像(絵)を使って思考(夢)するということなのです。

その証拠に、深い瞑想によって思考が充分に落とされるようになると、その人は夢を見ることもそれに比例して少なくなるのです。光明を得た人は、決して夢を見ることがなくなるのです。

私たちが夢も見ずに熟睡している間は、それがものすごく短い間であっても、実は瞑想によって真理に触れた瞬間と同じものだということです。

唯一の違いは、熟睡中は全く意識がなく、瞑想においては明晰な意識があるということです。だから、瞑想が深くなればそれだけ、良質な睡眠を得ることができるようになるということですね。

瞑想は睡眠障害にもとても効果があるということですね。

身体との同化を見破る

真の癒しとは、自分とは本当はナニモノなのかということに気づくことであって、それ以外のどんなことでもありません。そのためには、誕生してからやってきてしまったあらゆる思い込みを、手放していく必要があるのです。

つまり、生まれた時のようなまっさらな状態へと戻ることです。ただし、意識的であることを伴って。そのためには、どのようにして自分を認識するようになったのかを、遡って見ることです。

幼児期に、私たちは周りの家族から名前を呼ばれて、それを自分とくっつける作業を自動的に行うのですが、そのときに利用されるのが肉体というわけです。

もしも肉体がなかったならば、何度指さされてこれがあなたなのだと教えられたとしても、どこを見ればいいのかさえ分からなかったはずだからです。

そして、呼ばれた名前と常に身近に見えるこの肉体とを関連づけることによって、ようやく家族の中で上手に生きて行くことができるようになるのです。

もしも、この肉体を自分と同化することができなければ、その子供はそれ以降この社会の中で生きて行くことは相当に難しくなったはずですね。

だから、誰にとっても名前によってラベル付けされた自分と肉体を同一視することは、実は死活問題だったというわけです。そのせいで、この同一視、身体との同化はその後一切気づくことができなくなったのです。

単なる耳情報ではなく、自らの体験として身体との同化に気づくことができなければ、自分とは本当はナニモノなのかということにも気づくことはできません。

身体との同化を見破るためには、身体とのズレ、身体との距離を体験する必要があるのです。それが瞑想というわけです。

瞑想によって、身体に与えていたあらゆるエネルギーを内側へと引き戻すことで、身体はリラックスしてあたかもでくの坊のようになったと感じることができるのです。

そのとき、それをただ見ている存在としての自分に気づくのですね。

死の恐怖がなくなれば…

あらゆる生き物の中で、私たち人間だけが自分はいずれ死ぬということを知っています。ただし、死を恐れるあまりに、今はそのことを見ないようにして生きて行こうと思うのです。

けれども、死への恐怖というものは見えないところで、着実に人生に悪影響を与え続けているのです。なぜなら、その恐怖がすべての自己防衛の根っこにあるのですから。

もしもあなたが、自分は死なないのだと分かったとしたら、今抱えている問題のすべてが溶けて消えて行くということに気づくはずです。

一節によると、生きている間に充分に意識的でいることができるようになると、死の瞬間に意識を失う、つまり無意識にならずに済むらしいのです。

つまり、死にゆく自分を意識しながら死んで行くことができるということです。その結果、本人は自分には死というものがないということに気づくらしいのです。

私たちは死のことを生の対極のものとしてとらえている節がありますね。けれども、本当はそれは生の中で起こる一つの出来事に過ぎないということです。

死にゆく人を見たことがある人々は、それまでの彼がもうこれまで通りにコミュニケーションをとることもできないということが分かると、それが彼の死だと決めつけているのです。

それはあまりにも乱暴な決めつけではないかと思うのです。人間を肉体だと思ってしまうと、肉体の死がそのままその人物の死を意味することになるのですが、その身体への同化をなくすことができるなら、見方に変化がでますね。

充分に深い瞑想によって、無意識の領域に意識を伴った状態で入って行くことができると、これまでのすべての過去世の記憶に光を当てることができるのです。

その結果、あなたは死ぬことができないということを悟ることになるのです。死がないのであれば、明日からのあなたの生き方が全面的に変化するはずです。

あるがままの自分でいるということの清々しさを持って、今を生きることができるようになるのでしょうね。

悪気のない親からの強制

親というものは、子供を育てるときに、親自身の劣等感を子供に投影してしまうということが、よくあるのです。たとえば、親が学歴コンプレックスを持っていると、子供に高学歴を目指すように強制します。

経済的なコンプレックスがあると、何とか金持ちになれるようにと促すのです。そうやって、自分が実現できずに悔しい想いをしたことに対して、子供を利用してその鬱憤を晴らそうとするわけです。

何も知らない子供にとっては、誠にいい迷惑なのですが、残念なことに世間のことを知らない子供は、まんまと親の企てに乗せられてしまうのです。

親が子供に言うセリフですぐに思い浮かぶものとして、「そんなにゲームばかりしていると、バカになってしまうぞ!!」とか、「そんなテレビ番組を見たら頭が悪くなる」、あるいは「嫌いでも栄養があるから食べなさい!」など。

確かに一見すると、間違ったことを言っていないように感じるのですが、一番の問題は子供の正直な気持ちというものをないがしろしている点なのです。

それは、必死な親のマインドというものが、子供の気持ちを受け止める余裕をなくしてしまうことによるのです。 そして、そういう親は自分の主張していることは絶対的に正しいのだと決めつける傾向にあるのです。

そうなると、子供は自由な発想や、あるがままの自分にOKを出すことがとても難しくなってしまいます。その逆に、いつも親から叱られて否定されてしまうために、自分の存在価値に気づくことができないまま、大人になってしまうのです。

子供は何とかして親の期待に応えようと努力するかもしれませんし、途中であきらめて親への反抗を始めることになるかもしれません。

勿論、後者の方が将来についてはより健康な人物になるでしょうね。できるだけ早い時期に、親からの強制、束縛に気づいて、それから逃れることができるといいのです。

思い当たるふしがあると感じた場合には、しっかりと癒しをしていくことが大切だと思われます。

意識と無意識

私たちのマインドには、意識的な部分と無意識の部分とがありますね。このことは、すでに多くの方にとって常識的な知識となっていると思われます。

まさか、未だに自分には無意識などというものはない、自分は自分の全部を意識的に把握している、そう信じている人はいないでしょうね。

ご存じかもしれませんが、私たちのマインドの意識的な部分は平均的に10%程度と言われています。本当はもっと少ないのかもしれません。

それ以外は、全く意識できない無意識の部分というわけです。無意識ということは、熟睡していたり、気絶しているようなものと思えばいいですね。

つまり、何の自覚もないし、周りで何が起こっていようが一切気づいていない状態であるということです。そうなると、意識的な部分と無意識の部分とは、ちょうど真反対のように感じるかもしれませんね。

けれども、実はそうではありません。同じ一つのモノの両極と考えればいいのです。つまり、意識的であるとは、注意深くあるということであり、無意識とはその注意を失くしてしまった状態というわけです。

したがって、非常に注意深くあることと全く注意がないことの中間もあるわけです。注意深さが欠けた状態というか、注意が散漫になっている状態ですね。

それは、意識的であることと無意識の間に位置するのです。それは、白と黒の間のグレーゾーンと思えばいいのです。私たちが、毎日の生活の中でしっかり意識的に瞬間瞬間を生きていなければ、そのグレーゾーンにいることになるのです。

それは熟睡しているのとは違っているものの、充分に気づいていない状態で生を営んでいるということです。ウトウトと浅い居眠りをしつつ、生きているようなものなのです。

この状態のままでは、あと何千年生きたところで何一つ変わることはありません。意識的であること、つまりそれは注意深く見ていること、これができれば身体との同化が外れ、自分の本質に気づくようになるのです。

イメージとしては、こんな感じかもしれません。あなたが広々とした気持ちのいい草原に一人立っていて、周りの静けさに注意深く耳を傾けるのです。

きっとしばらくすると、あなたという身体を持った人物は曖昧になり、周囲の静寂さに気づいている、その気づきそのものしか残らなくなるときがやってきます。あなたとは、その気づき以外のなにものでもないのですね。

私は外にいる

– osho –

私たちはこの世の中にいて、しかもなお、そうではない。

真実は、私は外にいる。

これを何か他のことで試すことだ。

自分が惨めだとする。その中をちょっと覗いて見なさい。

あなたは惨めだと言うが、本当に惨めさの中にいるのか、それともその外にいるのか?

すると、確かに惨めさはあるが、自分はその外にいるのだと知って驚くだろう。

腹を立てているとする。自分が本当にその怒りの中にいるのか、あるいは外にいるのかを見てみなさい。

すると何時でも、自分は外にいるのだとわかるはずだ。

そしてもしあなたが、自分はそういうものの外にいるのだと分かり始めたら、そういうものは人生の中から消え始めるだろう。

それらは、あなたに対して持っていた力を失う。あなたは、あらゆる感情、感傷、思考からの大いなる自由を達成するだろう。

「ノー」のエネルギー

誰でも多少は自分のことを否定的に見てしまっている部分を持っているものですね。幼い頃にはマインドがまだ未熟だったせいもあって、人は完璧を求めてしまうからです。

その幼い頃の自己否定感が、どこかに残存しているというわけです。その程度ならまだいいのですが、その自己否定感が殊のほか大きくて、大人になってから持て余すほどになってしまうと、問題ですね。

たとえば、誰もがごく普通にできるようなことが、どうしても自分にはできないという事実が突きつけられると、当然そんな自分をひどく責めてしまうのです。

もういい大人なんだから、やるべきことをやれないなら、大人としてあるいは人間として自分は失格だと決めつけてしまうこともあるでしょう。

情けない気持ちになったり、自分への怒りに苛まれて落ち込むことにもなるはずです。症状が軽い人は、単なる怠け者なのだと思うかもしれません。

けれども、そんな時大切なことは、やろうと思ったことができない本当の原因を知ることなのです。そのためには、日頃から自分の内面を深く見つめる練習をしておくことが必要なのです。

やるべきことをやらないのであれば、それはやりたくないという強い抵抗があるという単純なことにまず気づくことです。そして、そのやりたくないという反逆のエネルギーがどこから来たかを考えるのです。

それは間違いなく子供のころの鬱積した感情のエネルギーからやってくるはずなのです。たとえば、もしもあなたが子供の頃に無邪気に「ノー」を言える状態ではなかったとしたら、そのエネルギーは蓄積していってしまいます。

そして、その溜まりに溜まった「ノー」のエネルギーが、時を超えて現在の大人のあなたのやらねばという気持ちに抵抗するというわけです。

かつて言えなかった「ノー」を、今になって言っていると思えばいいのです。その「ノー」に勝つためには、過去の鬱積したエネルギーを解放して、その力を小さくしてあげることが必要ですね。

そしてもう一つの方法は、大人のあなたが「やらねば」でやるのではなく、もっと気軽な気持ちで「やろう」、あるいは「やりたい」という気持ちになれば、「ノー」は邪魔することができなくなるのです。

いずれにしても、まずは自己否定をする代わりに、その原因を調査するという態度がどうしても必要となりますので、独りでは難しいなら、プロの力を借りることですね。

高級ワインの味わい

今日久しぶりに、ちょっと高級なワインを飲みました。久しぶりと言っても、もうかれこれ15年くらい経つのでしょうか。サラリーマンを辞めてからは、全く飲まなくなっていたのです。

それが時を経てあらためて飲んでみると、確かに美味しいのですが、でもただそれだけなのですね。残念なことに、自分の中でその体験がもう、特別なものではなくなっていたのです。

あれほど大好きだったのに、今日も同じように美味しいと感じているのに、そこには以前のような何か深みのようなものを感じることができなくなっていました。

それで、よくよく感じてみたのですが、本当は当時もきっと今とそれほどの違いはなかったのではないかと思うのです。でもそれでは、もう毎日が満たされなくて、何かでその穴埋めをしなければならなかったのでしょう。

その心の穴埋めの一つが高級ワインだったのだと思うのです。今は、何か特別なことがなくても日々満たされているので、自分をことさら欺く必要がなくなったのですね。

そうやって、自分の内面をあるがままに見るようになって、ようやくはっきり気づくことがあるのですが、それは本当に必要なものは決して外側にはないということです。

どれほどのものであっても、自分を本当に満たせるものは外側にはないのです。一過性の気休めや、興奮の類はいくらでもあるのですが、それはいくら飾り立てても、色褪せて見えるのです。

それに対して、内側を見ることは比べるべくもない時間を超えた素晴らしい体験なのです。一度その例えようのない奥深さを知ってしまうと、それが圧倒的過ぎるのです。

フランスのポイヤックの畑で大切に育まれた宝物のような葡萄から出来たワイン、そのありがたい複雑な風味も瞑想の一呼吸には及ばないのですね。