ただ「待つ」ということ

よく言われることですが、男性性は攻撃的であって、その逆に女性性は受動的であるということがありますね。これは実際に男性か女性かということではなくて、男性性と女性性の違いなのです。

私たちが持っている五つの知覚の中でも、ひときわ攻撃的なものが視覚です。目力なんていう言葉もあるように、見るということは能動的であり、場合によっては攻撃的でもあるのです。

あの人誰かに似てるなあ、などと思って見ていたら、それがその人に知られて怪訝な顔をされるなんてこともあります。あれは、その人にとって何となく攻撃されてるようないやな感じがしたからなのでしょう。

だから男性の多くは、知覚の中でも視覚がダントツ一位で使われているのです。狩猟が主な役目だった男性が視覚を主に用いるのも当然かもしれません。

その一方で、聴覚、味覚、嗅覚というのはどれも受動的なものです。外側からやってくる刺激を受けとって、それを感じるものだからですね。

そのために視覚のような方向性というものを持たずに、常に自分が刺激の中心にいるのです。例えば、街の雑踏の中にいれば、自分の周囲からやってくるあらゆる方向からの音を聞くことになりますね。

だから受動的な女性の場合は、視覚よりも聴覚などをメインに使っているのです。女性が男性のいい声などに魅了されるのは、そういう理由があるのです。

触覚だけが双方性というか、能動的な部分と受動的な部分のどちらもあると言えます。で、今日は本当のところ何が言いたいのかというと、攻撃性こそがエゴであり、受動的なことこそが覚醒への道に必要だということです。

つまり、女性性が持っている受動性、その中でも「待つ」という特性、それがなければ私たちは自分の本質への気づきを得ることはできません。

エゴ丸出しの子どもや男性性は、「待つ」ことがとても苦手ですね。受動性の行きつくところは、ただ待つということです。実は私は今もって待つことが苦手なのです!

何かを当てにして待つということではなく、ただ「待つ」ということを通してエゴは自然に落ちて行くしかなくなるのです。ただ「待つ」という態度、今年はそれを探ってみようと思っています。