「気分」を見つめる

誰でも不自由な状態よりも、より自由でいたいと願っていますね。私たちは幼い頃から自由であろうとしたのですが、残念ながら周囲からの圧力によっていつかは負けてしまうのです。

つまり、自由と安心を天秤にかけて、不自由であっても安心していたいと思うようになるのです。そこから、ずっと不自由さが付きまとう生活となるのです。

勿論、手に入れた安心だって一瞬のものであって、すぐに不安な状態へと戻されてしまうのです。結局、自由も安心もどちらも手には入らないのです。

私はあるときから、自分の自由をできるだけ追及する人生へ変えようとして、ある程度はそれが実現しました。といっても、その自由さとは自分の外側に関するもの、物理的なものに関してなのです。

朝何時に起きるとか、どのような一日を過ごすかなどです。会社員の頃と比べたら格段に自由度が広がりました。その点はよかったのですが、内面の自由さについてはそれほど変化はないのです。

そして、真の自由とは人から見えない部分、自分の内側の自由さにこそあるのだと分かったのです。今私が一番不自由だなと感じているのは、どこからともやってくる自分の「気分」に対してなのです。

この「気分」というのがとてもクセモノで、最終的にはそれの奴隷状態にあるなと自覚したのです。どんな理由にせよ、気分が悪くなるとそれを立て直す気にもならなくなるのです。

例えば身体の具合が悪いのも苦手ですが、それは具合が悪くなると気分が悪くなるからだと気づいたのです。ちなみに、身体の具合が悪くても、ごくたまに気分が悪くない場合があって、その時は自由さがあるのです。

この眼には見えない「気分」というものを徹底的に見ることによって、自分から切り離すことができればいいのですが、長い間のクセで気分が悪い自分というものと同化してしまうのですね。

努力して、気分を変えようとしたこともありましたが、この方法は今は使わないようにしています。なぜなら、それは本質的な解決にはならないからです。

単純に気分との同化を落とすことこそが、唯一の方法だと感じるのです。「気分」が恥ずかしくなるくらいに、凝視し続けてあげることですね。