ただ在ることに気づく

今日もシンプルに…

あなたはどこへ行こうというのだろうか?

あなたは日本にも、ハワイにも、地球上にもいない

本当のあなたは、あなたの内側の奥深くの中心に在る

それは場所ではない

あなたがどこへ行こうと

ただ在ることに気づいていればいい

以上

自己防衛の大きさ

自己防衛の大きさは、そのままエゴの大きさを表していると言っても過言ではありません。そのため、癒していくと、防衛が 大→中→小 のように変化していくのです。

例えば、自己防衛が大の場合の一つの事例をあげると、

大: 他人を優先する。「ノー!」が言えない。→ 自己犠牲を溜める → 怒りを溜める
生きる原動力は恐怖であり、思考に巻き込まれる。

 癒しによって、防衛が中になると、

中: 自分を優先できる。「ノー!」が言える。やってくる恐怖や罪悪感から逃げない。
怒りを溜めないようになり、思考が緩んでくる。

 更なる癒しによって、防衛が小になると、

小: そうしたいので他人を優先する。生きる原動力は愛であり、思考を使う側になる。
意識的な人生になる。

 

あなたが今どこにいるか、検証してみることも役に立つと思います。

思考から抜けて、時間からも抜ける

今日もシンプルに…

ジィ~ッと今という瞬間に浸っていると

無限の広がりがそこに在ることに気づきます

思考の縛りから抜けるとき

同時に時間という束縛からも解放されるのです

以上

仮面が取れない?

今日もシンプルに…

あまりにも上手に仮面をつけてしまうと

知らぬ間にそれが自分の顔のようになってしまい

仮面をはずすことができなくなってしまう

そうなったら、あなたのオリジナルが決死の抵抗を試みる

それは壮絶な人生を生み出すことになる

以上

テニス肘だってぇ?

自分としては珍しく、整形外科に行ってきました。かれこれ、1~2か月くらいの間、左の肘の外側の部分に痛みがあって、ちょっとした難儀を強いられていたからです。

で、診断は、「上腕骨外側上顆炎 (じょうわんこつがいそくじょうかえん)」という病名でした。俗に言う、テニス肘と呼ばれるものらしいですね。

ただ、私の場合はテニスはおろか、軽い水泳以外は何も運動らしきものをしてないので、一体なぜそんな病状が発生したのか、いまだに謎なのです。

放置しておいても、いずれ勝手に治るだろうと高を括っていたものの、いつになっても痛みがとれないばかりか、やや腫れてきたり、若干の痺れのようなものがやってきて、ようやく重い腰を動かして苦手な病院へ行ったのです。

長くかかる人だと、場合によっては6か月くらいかかることもあるそうで、なんだかなあ~という感じです。長く生きていると、いろいろなことがあるものですね。

起きてることにいいも悪いもないと、判断せずにただ淡々とを心がけるいい事例がやってきたのだなと思って、痛みの具合を見守ろうと思うのでした。

期待されることと罪悪感はセット

この社会においては、愛情深い親は子供に対して期待して当然だと思われているはずですね。子供に全くの期待もしないのなら、そんな親は愛のない卑劣な奴だというわけです。

一見正しいような気もしますが、実のところ本当の愛というのは相手に対してどんな期待も持たないはずです。なぜなら、今ある相手の存在に対してのみ愛が発動するからです。

期待というのは、それがどれほど素晴らしいものであろうと、100%未来に対するものなのです。したがって、期待するということは、それだけこの瞬間の相手の存在を見ていないということなのです。

それが分かれば、親に多大な期待をされてしまう子供が、如何にその圧力に喘ぎ苦しむことになるかが分かるというものです。

それは、今ある自分のままではいけないのだというメッセージをもらい続けることになってしまうのです。いくら親がそうではないと主張したところで、子供の側からすれば期待されることは苦しみしかありません。

期待と罪悪感はセットだからです。期待に応えられない自分に対して、必ずや罪悪感を感じることになってしまうからです。

どれほどの結果や成果を残したとしても、子供は決して満足することができません。なぜなら、もっともっと期待に応えなければならないという使命感に苛まれてしまうからです。

幼い頃に、親からの期待に潰されそうになっていたという自覚があるなら、期待を裏切ってやってくる罪悪感から逃げないようにすることです。

罪悪感を充分に味わってしまえば、期待に応えられないことなどどうでもいいことになるからです。そして、期待することは愛とは無縁であるということも忘れないことですね。