執着を手放す?

一般的に、「執着を手放す」という言葉がありますね。執着を持ち続けていると、結果としていつまでも辛く苦しいままになってしまうからです。

だからと言って、「私は○○への執着を手放します!」のような宣言を何千回唱えたところで、手放すことには決してならないのです。

あなたがイメージしているような「手放し」など、あり得ないからです。もしも、あなたがそれを本当に手から離すとしたら、それは捨てることになるだけです。

いらなくなったゴミを手放すなどと表現する人はいませんね。それと同じこと、いらないものはあなたにとって価値のないものなので、ただ当り前のように捨てるだけなのです。

だから捨てるつもりのないものに対してのみ、あなたは手放す必要があるなどと言うわけです。その自己矛盾に気づくことです。

そうしたら、手放したくても手放せないなどとは言わなくなるはずです。もしもあなたが、誰かに対する怒りを捨てられずにいるとしたら、それがあなたにとって価値あるものだからです。

その怒りを捨てることになったとしたら、怒っているあなたの中の小さな人格は不要となり、消滅せざるを得ないのです。つまり、死ぬことを意味するのです。

だから、怒りを温存しておくことこそが、彼にとっては生き延びる唯一の方法だと思っているのです。それは執着などという言葉では、本当は表現できないくらいの切実な恐れなのです。

「いいよ、もう消えるからさ!」そう言わせるためには、彼の存在をしっかりと認めてあげて、ただあるがままを尊重してあげることですね。

眠りには適度の思考が必要

何かの考え事をし過ぎてしまって、いざ寝ようと思ってもなかなか寝付けなくて困ったという経験は、誰もがしていることと思います。

頭が興奮すると、そういうことになるのも頷けますね。けれども、その逆に思考があまりにも静かになってしまうと、それはそれで眠りがやってこなくなるのです。

その理由は、意識が際立ってしまうからなのではないかと思うのです。意識は思考に邪魔されない限りは、そのまま覚醒しているしかないからです。

瞑想しているときに、眠ってしまうことがあるとしたら、それは気づかぬうちに思考が立ち上がって来て、意識(覚醒)を覆い隠してしまうからなのでしょう。

もしも本当に思考の主人として返り咲くことができるなら、覚醒し続けることになるはずです。その時には、覚醒しつつ身体だけが休息するために睡眠をとることになるのでしょうね。

残念ながら、今のところ意識を失うための睡眠をやめられないようです。寝るのが大好きなので。エゴがいない状態って、天国ですね!

そもそも価値ってなに?

今日もシンプルに…

もしもあなたが、自分は出来損ないで、生きてる価値もないと思っているなら、

あなたがどんな人物であれ、それがとんでもない間違いであることを

理論的にきちっと証明して差し上げられるので、

それを知りたければ、是非セッションにいらして下さいね。

以上

決断せずに、決まっていくに任せる

何かを決断しなければならない時というのは、必ずやってくるものですね。私の場合は、どうも即決というのか、ほとんど深く考察もせずに決めてしまうという傾向が強いようなのです。

かなり高額のものを購入するというときでも、そこそこ迷っているふりはするものの、実はすでに心づもりができていて、結局は最初に決めたようになるのです。

つまり、決断するのにあまり頭を使いたくないということなのでしょうね。だから、決断するのになかなか決まらずに悩むということの経験が本当に少ないのです。

もしかしたら、本当のところ決断などしたことがないのかもしれません。ただなんとなく、決まっていくに任せているということなのかもしれません。

ところが、最近セッションルームをもう少し広くしたいと思い立って、あれこれ検討してみたものの、選択肢ばかりが増えてしまって、一向に決める気配がないのです。

こんなことは人生の記憶の中でも本当に初めてと言ってもいいくらい、珍しい状態に陥っているのです。で、気が付いたのですが、本当はこのままでいいと思っているのかもしれません。

優柔不断というのか、勝手に決まっていくに任せるいつもの方法にそろそろ戻ろうと思っています。決断ができないその位置にいつまでもいたいのかもしれません。

いずれにしても、愛を持って放っておくやり方に戻すことで、きっとどこかで決まっていくことになるのでしょうね。人生とは本当に不思議なものです。

怒りを楽しむ

突然ですが、あなたは怒りを楽しんでいますか?

怒りという感情に対して、強く敵対視してしまうと、それをあるがままに感じることが難しくなってしまいます。そうなる理由も様々あるのでしょう。

例えば、幼いころに親にひどく激怒をぶつけられて、自分は絶対あんな人間にはならない!と決意したりすると、怒りを悪者として扱うようになるのです。

けれども、怒りそのものは恐怖や悲しみなどと同じ、単なる感情のうちの一つに過ぎません。怒りを感じることはごく普通の当り前のことなのです。

怒りを否定的な目で見ることをやめると、怒りという感情を楽しむことすらできるようになります。怒ることは、一つのレジャーのようなものになるのです。

本当は大して怒ってもないのに、怒っているようにして密かに楽しむということもできます。そのような怒り方をしても、いやな気持ちになることもありません。

もっともっと怒りをふつうのものとして見ることです。そうしたら、わざわざ怒りを相手にぶつけることもなくなって、ただ怒りの風味を楽しむ余裕すら持てるようになるのです。

悲しみをしっかり味わうと、何とも言えない深みのようなものがあることに気づくのと同じなのです。どんなものであれ、敵対視をやめると、何かがフワッと変わり出します。

何も無さだけが在る

今日もシンプルに…

あなたの肉体の眼は常に外側へ向いていますね

その向きをひっくり返して、外側を見ている自分をみて下さい

そこに何が在るか、自己イメージ通りのあなたがいるか検証して下さい

できるだけ正直に、その結果を受け容れることです

自己イメージはおろか、そこには何も無さだけが在ると分かるはずです

以上

自己イメージを洗い流す

今日もシンプルに…

人生で最も大切な事

それはどんな自己イメージであれ

それは自分ではないと気づくこと

それが深くまで到達するとき

あなたは自己の本質と対面することになる

以上