親自身の問題行動

セッションには、子供の不登校その他の問題を抱えていらっしゃる親御さんも思いの外、数多くいらっしゃるのです。子供がまだ10代だったりすれば、当然のことです。

10代くらいの年代の場合、心の癒しということにそれほど興味を持てないようなのです。何がどう問題なのかも判然としないし、自分の状態を把握できていないのでしょうね。

それで、親御さんが連れて来る場合もあるし、親御さんだけでいらっしゃる場合もあるのです。そんなときに、ご両親にいつも言うことは、まずその問題視をやめて下さいということ。

子供は、直接的に親に対して正直な心のうちを伝えられなくて、その代りに問題行動を起こしているだけなので、それを問題視して否定することをやめる必要があるのです。

親が子供の問題行動の本当の原因を見つけようと努力するなら、そしてその原因が自分たちの接し方にあると認めることができるなら、その問題行動は消えて行くのです。

子供の問題行動は、分かって欲しいのに分かってもらえないという不満が原動力だからです。ところが、それを理解できるような親であれば、元々セッションなどには来ないわけです。

親としては、理由は何であれ、その問題行動さえ終息してくれればいいということなのです。それが子供の側から透けて見えてしまうために、子供の問題行動は継続するのです。

そして更に言えば、子供の問題行動というのは、親自身の問題行動として起きているという言い方もできるのです。もしも、親がこのことを深く理解するなら、家族中で大きな気づきと癒しのチャンスがやってくるはずです。

一日一日を生きて、死ぬ

私たちは、生を何十年も生きて、その後突然のように死がやってくると思っています。けれども、よく考えてみれば分かることですが、生まれたときにはすでに死につつあることが開始されるのです。

生まれたからには死ななければなりません。これが二元性の世界のルールです。生まれた瞬間に、死ぬことが決定してしまうということ。

オーバーに聞こえるかもしれませんが、これは事実です。受胎したときから死がスタートして、この世に生まれ出るときにはすでに、約10ヶ月分は死のイベントへと近づいているのです。

私たちが通常イメージしている死とは、死の最終的なイベントのことであって、死そのもののプロセスは生の初めからずっと継続しているのです。

もっと正確に表現するなら、今生の死のイベントを欲望を持って迎えてしまうなら、その死の瞬間に来世へと生が継続することとなり、来世の死も同時に約束されるというわけです。

こうして見てみると、死は生の中にしっかり組み込まれているということ。最期のイベントが目立っているので、そこばかりにどうしても目が行ってしまいがちですが…。

生は死によって生として在ることができ、また死も生によって在るのであって、互いに相補的な関係にあるのですから、生の方ばかりに注意を向けて生きるのは不自然なのです。

今日を十全に生きれば、それは一日の死がやってくるでしょう。そして、次の日はまた新たな生を生きることができるのです。そうすれば、誰も過去に興味を持たないはず。

一方不十分な生は、それを成仏させることができずに溜まっていくのです。そうすると、終わったはずの過去がいつまでも本人に襲い掛かって、今日という生を台無しにしてしまいます。

一日一日を生きて、死ぬことができれば、最期の死のイベントのときにはどんな欲望も消えてしまい、生と死の輪廻から永遠に抜け出ることになるのでしょうね。

人格を磨いちゃダメ!

いわゆる宗教と呼ばれるものの中には、徳を積むとか、人格を磨くとかってことがさも重要なことであるかのようにして、人を惑わすものが沢山あります。

人は不安で生きているので、彼らの教えることが正しくて、信じてしまえば救われるとつい思い込んで、その教えとやらをひたすら実践するわけです。

ところが、徳を積んで自分はどうなりたいのかということを突き詰めれば、あの世に行ったときに優遇されたいとか、安心して天国に行けるようにだったりするのです。

それがエゴの自己防衛だと気づかないから、教えを守るために家財なども投げ打って、悲惨な人生へと転落してしまうこともあるのかもしれません。

人格を磨いても、どうなるものでもないのです。そもそも、人格とは分裂して病んだマインドを基盤として成長した醜悪なものに過ぎないのです。

私たちは、自分の思うままにさせてよ!と言う無邪気さを持って生まれてきます。ところが、お前のままではダメだ、とてもそのままではこの世界では生きてはいけないと教え込まれるのです。

その結果、こうあるべきだという部分と、自分のままでいたいという部分の二つに分裂してしまうのですが、それこそがマインドの正体なのです。

つまり誰のマインドであれ、大なり小なりそれは精神分裂を起こしているのです。それをマインドと呼ぶのです。マインドとは、正常に病んでいるか、異常に病んでいるかの違いしかありません。

それを積み重ねて作り上げたものこそが人格なのですから、それをいくら磨いたところで分裂が更に激しくなるくらいがおちなのです。

大切なことは、なるべくあなたのオリジナルのままでいさせてあげるということ。そこにいいも悪いもありません。それが自然に逆らわずに生きる極意なのですね。

生と死の円環

生きるということは、誰にとっても同じように不安なことの連続なのです。なぜなら、完全に決定しているようなことがないからです。

未来に向けて何をどう頑張ったところで、自分が望むような安心を永遠のものにすることなどできないのです。生とはそれほどまでに不確定なことばかりです。

だから不安がやってきても仕方のないことですね。そして、更に言えば誰の人生にも唯一確実なものがあるのですが、それが死ぬということ。

いずれは死がやってくることだけが、私たちに共通の決定事項なわけです。そのことをよくよく見つめ直してみると、相当に的外れなことをやっていることに気づくかもしれません。

と言うのも、不確実であることをできるだけ確実なものにしようと頑張る一方で、100%確実な死についてはなるべくそれを見ないようにしているのですから。

これはおかなしなことをしていると言うしかありません。それが人生でしていることだとするなら、ちょうど自然と正反対のことをしていることになってしまいます。

自然に逆らって生きれば、当り前ですが不自然な疲労が心身を襲うことになるはずです。どこかで自然で素直な生き方へとチェンジしなければならないということです。

不確実なことは不確実なこととして、それをそのまま受け容れること。何とかしてそれを安心に変えようとするのをやめてしまうことです。

一方で、絶対的に確実なことである自分の死については、真向から見つめてみることです。逃れられないものから逃れようとすれば、そこに恐怖がやってくるのです。

死を不吉なものとして捉える代わりに、生の一部として見直すこと。生と死は互いにコインの表と裏のような関係にあるからです。

生まれた瞬間に、死に向かって突き進んでいるという事実。死んだ瞬間に、新しい生への第一歩を踏み出すということです。この生と死の円環を見守っているのが、不死である本当のあなただということです。

魂はないが輪廻はある

最近、過去生を見てみたいと言われるクライアントさんが増えてきた感じがします。また、輪廻転生って本当にあるんですか?という質問をぶつけられることも時々あります。

私自身のささやかな体験を思い出すと、転生するような実体としての魂のようなものはないと断言できるのです。あの自分はいないという体験は、非常に明確で疑う余地のないものだったから。

個人というものがないのに、その個別性の核となるような魂のようなものがあるはずがないのです。それなのに、一方では輪廻はあるというしかありません。

それは数多くのクライアントさんとのセッションを通して、動かし難いものであると感じているからです。私自身もかつて、催眠療法の中でいくつかの過去生を見たことがあるのです。

魂はないけれど輪廻というものはある。この一見矛盾することを理解するためには、少し発想を変えてみる必要があるのです。

ドミノ倒しってありますよね、テレビでも時々やっています。タレントさんとかが時間をかけて何万個ものドミノを立てておいて、一気に倒すあれです。

隣り合ったドミノが順番に倒れていくだけなのに、なぜか私たちはそれをみて、何かが進んでいるかのような錯覚を起こすわけです。

あれは、何か実体のあるものが移動しているのではなく、エネルギーの伝搬をドミノを使って視覚化しているということです。輪廻もあれと同じようなもの。

輪廻転生する実体としての魂があるのではなく、惨めさや欲望といった生きていた人々のマインドのエネルギーが伝搬していくということです。

そのエネルギーには思考が集めた記憶情報も含まれているため、そのエネルギーが伝搬した先の受精卵が成長すれば、その人の記憶となって思い出すことがあり得るのです。

それこそがその人が見る過去生というわけです。いずれにしても、個人としての自分はある実体を持った存在だと信じていると、魂のようなものの存在があると都合がいいわけですね。

残念ですが、あなたも魂もどちらも実体はありません。欲望などのマインドのエネルギーそのものが、ただ伝搬するだけなのですね。

疑いと不信の違い

セッションの中で、常々お伝えしていることの一つに、セッションで聞いたことをそのまま信じてはいけないということがあります。

なぜそんなことをいちいち言うのかといえば、人はとりあえず信じたいのです。信じてしまえば、あとがすごく楽だということを知っているからです。

一旦信じてしまうと、マインドの中で決着がついて、安心することができるのです。実際、人はなぜ信じるかと言えば安心したいからに違いありません。

けれども、信じてしまえばその裏側に不信がくっついてくるのです。不信を排除して信じることは、物事の道理からして不可能なことです。

信じることと信じないことは共に一枚のコインの表と裏の関係であり、どちら一方だけというのはこの世にはあり得ないということを理解することです。

神がいると信じることと、神がいるとは信じないこととは同じことなのです。どちらも、神がいる(いない)と信じているからです。

いわゆる宗教の信者とは、その全員がマインドの奥にその宗教への不信を隠し持っているということ。神を信じてしまえば、どんな探究も不要であり、神の不在を信じても結果は同じ。

その手っ取り早さは、あなたをどこにも連れて行ってはくれず、どんな気づきもやってきてはくれません。一方、幼い子供の質問責めを思い出して下さい。

子供たちは何かと疑問に思って、無邪気に質問を繰り返すのですが、あれこそが純粋な「疑う」ということが起きている時なのです。

「疑う」という言葉は、どういうわけか何かネガティブな響きを持って聞こえてくるのですが、本当は疑うことは物凄く健康だし、そこから探究が始まる大切な心の要素なのです。

分かったような大人たちが、物事を疑ってはいけないと子供に諭すなら、その大人は信じることがいいことだと勘違いする無知な状態なのです。

信じることの裏返しである不信と、純粋な「疑う」こととは全くもって異なることです。「疑う」心がなければ、どんな探究も起きないことに気づくことです。

疑うことをきっかけに探究が開始され、そのバックに信頼がやってくるのです。疑うことがなければ、信頼は決してやってきてはくれません。

今日この瞬間から、信じるか信じないかの人生から足を洗いませんか?疑うという宙ぶらりんでいることです。必ずや何等かの探究が起きるはずだからです。その時に信頼も一緒にやってきてくれるのです。

ただ在ることが目的

子供のころに、自分は何で生まれたのだろう?とか、そもそも何で生きているんだろう?自分が生まれた本当の理由は何なのだろうか?などと考えたことがない人はいないかもしれません。

日常の中で、ふと我に返ったときにそのような疑問が湧いてきても決して不思議ではありません。けれども、よくその状況を見てみる必要はあるのです。

つまり、物凄く何かに熱中していたり、全一に物事に取り組んでいたり、大喜びしていたりといった時には、そんなことを考えることはまずないからです。

何かしら辛いことが起きていたり、寂しかったり悲しかったり、自分は惨めだと感じたり、そうした自分にとって不都合なことがあるときに限って、人生への疑問が湧いてくるのです。

セッションにいらっしゃるクライアントさんの中にも、今世の人生の目的、自分は何をするためにここにやってきたのかを知りたいという人が現れるのです。

何かしなければならない目的があるとするなら、それはあなたのマインドの中の思考が作り上げたものだということの理解を深める必要があります。

目的や意味、意義や価値など、そういった一連の観念は思考が作るだけで、実在するものではないからです。そんなものに踊らされて、それを信じて一生を終えるのはあまりにも無知だと言わざるを得ないのです。

敢えて言うなら、あなたはただここに在るということだけが、唯一の目的です。それ以外の目的を求めようとするなら、それは個人だという思いの副作用としての欠乏感の成せるワザなのです。

こうしてこのままいるなら、自分には何かが足りない。もっとどうにかして満ち足りた感覚を持ちたいと望むからこそ、今のままでは何かが間違っていると思い込むのです。

そうして、何とかして人の役に立ちたい、世界に貢献できる人物になりたい、人に認められる成果を出したいとして、奮闘努力の連続で、疲れ果てるのです。

そうではなく、あなたの今この瞬間には、どんな間違いもありません。唯一気づく必要があるのは、本当のあなたはあなたが信じているようなあなたではないということ。

思考が落ちたときに、どんな目的もそれに付随するどんなするべきこともないと分かるはず。その時に、ようやく肩の重荷がとれ、力が緩んでただ在ることにくつろぐことができるのです。

所有が人を苦しめる

人が普通に持っている欲望の中で、ごく一般的なものの一つとして所有欲というのがありますね。今日はその所有について書いてみます。

単刀直入に言えば、所有とは実在するものではまったくなく、ただ私たちのマインド(思考)によって作られた概念、観念、つまり幻想なのです。

所有は確かに、この社会ではとても便利に機能する概念なのですが、それがただの概念であることを忘れてしまっているところに問題があるのです。

そんなことはない、自分はマイホームもマイカーも持っているし、お金だって人並み以上に所有していると言う人もいるでしょうね。

ただし、それでも所有は幻想だということ。たとえば、あなたが死ぬまでずっと独り無人島で暮らすとします。その生活の中で、何かを所有するということがあり得るでしょうか?

木の実をどれだけ取れたとしても、海に潜って魚を仕留めたとしても、それをわざわざ自分のものだと宣言する必要もありませんね。

つまり所有とは、自分と他人との間での取り決めなのです。これは私の所有物、あれはあなたの所有物と言う具合に、いわゆる仕分けをしているに過ぎません。

単なるルールです。あなたがこれは私の家だと主張するとき、他人がその通りだと認めることによってのみ、それがあなたの所有物だとなるだけなのです。

それがなければ、所有にはどんな意味も見出すことができないはず。結局、所有とは思考の中の単なる決め事以外の何ものでもないということ。

本質的には所有とは存在しないということです。それなのに、私たちは自分の所有物をできるだけ増やそうと日夜努力しているのです。

そして、人よりも所有できずにいると、それが自分を傷つけることになるのです。実際、あなたがどんなものを所有できたとしても、あなたが真に満たされることは決してないのです。

なぜなら所有にはどんな実体もないからです。このことを何度も深く理解することができるなら、所有への渇望は次第に影を潜めていくはず。

所有に興味がなくなれば、私たちの苦悩の多くが消えてしまうでしょうね!

投資の元を取ろうとしない

セッションの中で、クライアントさんの様々なお話しを聴かせていただきながらいつも思うのですが、その辛い物語から本当は抜けたくないと思っているのではないだろうか、ということです。

勿論誰だって癒されてより清々しい人生へと変えて行きたいと思ってわざわざセッションに来るはずなのに、それを疑いたくなるほどに、なぜかその物語にしがみついているのです。

その執着はどこから来るのだろうか?そう考えたときに、一番納得できる理由としては、その物語にこれまで多大な投資をしてきたと思っているからだろうと。

人は投資した分だけ、その元を取りたいと思うものですね。学生の頃、毎日のようにパチンコに行っていたのですが、あの時のことを思い出すと、そのことがよく分かるのです。

もう少しで玉が出だすと感じて、もう一回もう一回とつい沢山つぎ込んでしまったときに限って、諦めがつかないというか、結局最後は一文無しになるまでやってしまう。

それと似ているのではないかと思うのです。例は悪いですが、沢山投資すればそれだけの見返りを求めて、どこまでもやり続けてしまうという人間のマインドの特徴なのかもしれません。

だから辛い人生という物語からそう易々と降りることができなくても、不思議ではないということなのですね。本当は、その物語を良くしようとする努力の代わりに、物語から降りる方向へと意識を変えることが大切なのです。

あるいは、物語から降りるという大それたことの前に、物語をもっとシンプルにしていくことは可能なのです。もしもなかなか抜け出せないという自覚があるのでしたら、自分がしてきた投資について潔くそれをドブに捨てる気になれたなら、思いの外癒しは早く進むはずだということです。

内側と外側は一つもの

今この瞬間、感じていることをとりとめなく書くと、外側の何かを見るときに自動的に思考を伴っているということ。その思考が、見ているものを客体として判断しているのです。

その思考によって、見ている主体としての自分と、見られている客体としてのモノを分離させているということに、どうやらなっているらしいです。

もしも思考を排除した状態で同じように外側の何かを見ると、見えているものがターゲットとしてのニュアンスが微妙になってくるのを感じます。

結局、主体と客体の違いが分からなくなるってことなんでしょうね。分からないのではなく、元々そうした違いは実在していないということなのでしょう。

そうなってくると、自分の内側と外側という区別が崩壊していくのが分かります。内側と外側は連続であり、一つものだということ。

我が消えるのと同時に、汝も消えてしまう…。

短い間だけど、すべての物語性も消えて、至福だけになる。書けば書くほど、表現しようとすればそれだけ遠ざかるってこのことなんですね。