昨日のブログで、究極の真理、真実は共有することができないということを書きました。だから未だに私たちは思考の中、物語の中で生きて人生を終えて行くことになるのです。
でもなぜ、共有できないかということをもっと突き詰めて見てみたいと思うのです。実は、真理はまったく隠されてはいません。
私たちの目の前にいつもその姿を晒し続けているのです。真理にヴェールがかかっていて、だから見つけられないと思うのは間違いなのです。
もしも真理にヴェールがかけられているのなら、やはり誰かがそのヴェールを剥ぎ取ってくれたなら、相対性理論の発見と同じようにして、みんなで真理を分かち合うことができたはずなのです。
けれども現実はそうなっていません。その理由は、ヴェールをかけられているのは真理ではなく、私たち自身の方だったのです。
だからこそ、仏陀が自らのヴェールを剥ぎ取って真理を見い出せたとしても、それだけでは誰も直接その恩恵を受けることができなかったのです。
仏陀がやったこと、つまり個人的なレベルで自分にかけられたヴェールに気づき、それを剥いでいくという同じことを私たち一人一人が独自にやらねば、真理は見つけられないのです。
もしも身近にいる誰かが覚醒したとしても、その人の真似をしたところで同じことが起きることはほぼないのです。私たちは自分の個性に見合ったやり方で、それぞれに探究するしかありません。
だからこそ、人と共有することができない内面の領域へと、深く深く入っていくしかないのですね。