仏教の最も根本の部分であるゴータマ・ブッダの真意をある程度分かるようになると、その仏教の(申し訳ないけれど)成れの果てである様々な宗派について、どんな関心もなくしてしまいます。
父親の亡骸を火葬してもらうときに、家の宗派を聞かれてすぐには分からなかったのですが、結局その宗派のお坊さんを呼んで、お経をあげてもらうことになったのです。
私の感覚では、法外に高いお布施を支払ってそこにどんな意味があるのか…。それでも、何もしないというのもどうかと思い、周りに言われるままに執り行ったのです。
そして今度は、納骨のときに四十九日の法要もしてしまおうということになったのですが、みなさんは初七日とか四十九日の法要にはどんな意味が込められているかご存じですか?
私は個人的には全く興味がなかったのですが、行うのが当然という家族の態度にやや腹が立ち、調べて見たのですが、それはもう途方もないものでした。
いつの時代から始まったのかは分かりませんが、人が死ぬと七日ごとに、閻魔大王様に審判されるということです。つまり、初七日、二七日、三七日、四七日、五七日、六七日ときて、7回目に四十九日がやってくるのです。
四十九日の日に、故人が極楽浄土できるのかどうかという最終的な審判が下るとのことで、それをみんなで祈るための儀式なのですね。
こうしたことを知ったうえでも、本当に四十九日の法要を是非やりたいと願うのであれば、それはその人の意志も尊重されねばならないでしょう。
けれども、誰もがやっているから、非常識と思われたくなくてそういった法要をしなければならないと思っているなら、これはもうただの防衛に過ぎません。
家族がやりたいというのであれば、絶対にやりたくないというのでもないわけで、それはどちらでも構わないのですが、もう少し自分の本当の気持ちに気づくことも必要なことではないかと思うのです。