全体性という真実の中に、個別性というものは実在しません。ということは、個人だと思っているこの「私」も存在することはできないということ。
そして、その「私」が苦し紛れにでっち上げた魂というものも存在しないのです。だからといって、輪廻転生もないという必要はありません。
魂が転成するのではなく、人のマインドの惨めさこそが転生するのです。惨めさというのは、他人との比較の上に作られる思考です。
自分の不安や孤独感を他人のそれと比較することで、惨めさという思考エネルギーが起きるのです。それが執着を生むことで、転生が起きてくるのです。
同じような惨めさのエネルギーが充満している家族において、作られた母体の受精卵の中へと自動的に亡くなった方の惨めさのエネルギーが流れ込んでくるのです。
そうやって、次から次へと惨めな人生が別の肉体、別の人格の上で繰り返されて行くわけです。それを輪廻転生と呼ぶのです。
思考が静まり、惨めさがなくなった人生を生きた人は、肉体の死とともにただ消えて行き、後に伝搬するようなどんなエネルギーも残さないのです。