誰もが自分の肉体がどこにあるのかは知っているのですが、自分の本質、肉体とは違う自分そのものがどこにあるのかは知らずに生きているのです。このことは、ちょっとした実験によって明らかになります。
そして不思議なことに、自分がどこにいるのかが分からない、という感覚を素直に認めてしまうと、今度は突如として自分は全てなんだという感覚がやってくるのです。
どこにもいないことと、全体性とは全く同じものだったのだと気づくのです。自分の存在について、位置という概念がないのは、無か全体のどちらかであるとも言えますね。
それは言葉の上のことだけでなく、その両者は体験として一つだということ。この気づきは、自分を見つけられないということをどれだけ正直に受け止められるかにかかっているのです。
認めることができれば、すぐにでも全体性が向こうからやって来てくれます。全体性が何のことか分からないという人もいるかもしれませんが、これは能力の問題ではありません。
これまで培って来たどんな常識でも、どれほど当たり前と思っていることであれ、それらを潔く脇に置いて、今この瞬間に自分に見えていることを認められるかどうか。
蓄えて来た知識は、知っていることではないと見抜くことができれば、知識などすぐに脇へ置いておくことができるのです。知識ほどチープなものはありません。
人生には目的などないのですが、100歩譲ってもしあるとするなら、どんな先入観もなしに、目の前にあるものをあるがままに見ることではないかと思うのです。
そのためには、自分がどんな先入観を持っているのかを、しっかり見抜くことが必要なのですね。