思考という歪んだ鏡

何かを考えている時、「私は考えている」ということに気づいていられれば、考えている自分は思考ではないと分かります。

歩いている時に、自分は徒歩ではないということと同じですね。では、歩いている自分、考えている自分とは一体何者か?を見ようとしてみて下さい。

そうすると、私たちは直接その自分を見ようとする代わりに、思考を使って自分についての情報を検索しにいってしまうのです。

つまり、思考という歪んだ鏡に照らして自分を見るということをずっと続けてきたのです。一度も直接自分を見ようとはしてきませんでした。

内省というのは、その思考鏡を使ってよ〜く自分を見ようとすることです。催眠療法などの心理療法も同じです。

それが一般的な癒しにとって有効なのですが、直接自分を見るということには繋がらないのです。

思考鏡を使わずに、ただただ自分を見ようとすると、自分の姿を見ることができないということに気づくはずです。

思考はそれを許さないのですが、思考に気を使う必要はまったくありませんので、そのままを受け入れてしまえばいいのです。

そうすると、自分がナニモノでもないということに気づくはずです。とても簡単なことです。そのときに、ようやく自分の本性は思考では捉えられない何かだと分かるのです。

実在とはそういうものなのですね。