完全か不完全かを頓着しない

不完全でいて、成長し続けなさい
なぜなら、それが生というものだからだ
完全であろうとなんかしないこと
さもなければあなたは成長を止めてしまうだろう
そうしたらあなたは仏像のようになってしまう
石ころだ
いくら仏像でもそれは死んでいる

by osho

私たちは成長することで一歩一歩完全な自分になっていくのだと思い込んでいますが、完全になろうとすれば成長は止まってしまうと言っているのです。

これはどういうことでしょうか?ここでいう成長とは何のことを意味するのかを考える必要がありそうです。

子供の頃は非力であり、無力であることを惨めに思うものです。だから、なにがしかの努力をして自分に力をつけていくことが一つの成長だと考えているかもしれません。

あるいは、半人前だった自分が大人になって分別ができるようになって、社会で認められるようになることが成長だと思っているかもしれません。

他人のために役に立つ自分になること、社会貢献などを通して価値ある自分になっていくことこそが成長だという意見もあるかもしれません。

けれども、↑ここで言う成長とは気づきのことです。どれだけ多くのことに気づいていくことができるのかということ。

最終的には、自分の実在に気づくこと、真実に気づいていくことこそが成長というものだと言っているのでしょう。

それは完全になることとはまったく異なることですね。真実は、完全とか不完全といった思考の範疇ではないからです。

真実に気づいていくためには、日々外側を見る代わりに内側を見る訓練をすることです。社会でどれだけ活躍したところで、気づくことにはならないばかりか、気づきを妨害されてしまうかもしれません。

内へ内へと意識を向け続ける練習をすることです。それが唯一の成長への道なのですね。