内奥無比なる実存は鏡のようなものだ
それはその前に来るものすべてを映し出す
それはただ、ひとりの<観照者>となるのだ
空腹や満足
生と死
そこに起こることがなんであれ
それは鏡の前で起こるのだ
決して鏡そのものに起こるんじゃない
これが非同化だ
これが根を断つことだ
一番の根本を
by osho
↑ここでは起こるすべてをそのままに映し出す鏡であれと言っているのです。それが非同化だと。逆に言えば、起こっていることに巻き込まれて、その一部になってしまうことを同化というのですね。
同化してしまうと、起こっていることを歪めてしか映し出すことができなくなってしまうのです。巻き込まれて勝手な反応をするようになるからです。
他の表現を使えば、映像とスクリーンの関係ということもできます。私たちは同化することで、自分のことを映像の中の人物だと思い込んでいるのです。
そこには常に物語が展開されていますが、スクリーンはどれほど物語と密着していようと、物語の一部ではありません。
映像と同化しないでいられるなら、自分の本質はスクリーンだと気づくはずだということです。それを純粋な意識と呼んでもいいし、気づきと呼んでもいい。
同化しないようにするためには、常に起きていることの物語性に気づいていることです。夜寝る前に、今日一日の自分の物語はどんなだったか見てあげるのです。
そして本当の自分は、その物語の中にはいないということに気づけばいいのです。自分はただそれを見ているだけだったということに気づくのです。
これこそが同化から抜けている状態ということですね。