愛は感情ではない

愛は死だ
自我の死だ
そして、死んでみてはじめて
あなたは自分が死に得ないのだということを知る
あなたの中の何かが死を超越するということを

by osho

↑この言葉で分かる通り、愛というのは感情ではありません。愛は分離が幻想だと気づくこと。幻想から醒めた状態のことをいうのです。

分離とは自我が生み出した作り物。だから自我が活性化している限り、愛を知ることはできません。

したがって残念ながら、私たちが日頃思っている愛とか愛情というのは、自我が作り出した感情であり、その正体は執着なのです。

執着は「ちょうだい」のエネルギーであり、それは不足感、欠乏感からやってくるのですが、その大元の原因となるのが分離感なのです。

ただし、自我が本当に死なないにしても、その活動を一時的に休止することはあるのです。そのとき、私たちの誰もが経験できる愛の体験があるのです。

それは自分のことを忘れて、誰かの命を助けようとしたり、ほんの一瞬、すべては一つだったと理解するようなとき。

自我はまたすぐに活動を再開してしまうので、そういう体験はそう長くは続かないのですが、それでも一度でも体験すれば愛がどんなものかが分かるのです。

自我の死は理想ですが、そのために直接できることは一つもありません。ただ意識的であること、自分の自我をいつも見つめている練習をすることで、自我のエネルギーは小さくなっていくはずですね。

マインドのスピードを落とす

いつもできるだけ意識的であるように心がけていると、自分のマインドのスピードが今どのくらいなのかが分かるようになるものです。

それはちょうどクルマを運転しているときに、他のことを考えていたり同乗者と調子に乗って話し続けていると、スピードがどのくらいでているのかケアしづらくなるのと同じです。

注意深く運転していれば、自分の運転が今どのような状態なのかについて、最優先で見ていられるものです。気がついたら制限速度をはるかにオーバーしていたということがなくなります。

40年以上クルマを運転してきたのですが、幸運にもこれまで大きな事故を起こしたことがないのは、ある程度注意深さを忘れずにいられたからだと思います。

思い返すと、事故とは言えないちょっとしたかすり傷程度を負ったようなときには、必ずなんらかの理由により注意散漫だったと記憶しています。

スピードを出してはいけないということではなく、人間ですからスピードを出したくなるときがあってもいいと思うのですが、そういうときには普段よりももっと注意深く運転できればいいのです。

運転はある意味命がかかっているので、注意深くいられるのですが、それとまったく同じくらいに、生きている瞬間瞬間に注意深くいられるようになればいいのです。

そうなったらもう、思考に巻き込まれ続けることもなくなっていくはずです。やってくる思考が途絶えなくても、それを見ていられるようになれば、マインドのスピードに気づいていられるからです。

クルマを十分にゆっくり走らせていれば、周りの景色を見て楽しむことができるのと同様、十分にマインドがゆっくりになれば、深い気づきを持って起きていることを見ることができるのですね。

反面教師を解任する

反面教師という言葉がありますが、子供の頃に初めてその言葉を聞いたときには何やら怖そうな感じがしたのを覚えています。

恐ろしい形相の仮面を連想したのかもしれませんが、要するに「悪いお手本」というくらいの意味ですかね。

自分が誰かにされて嫌だったことは、決して自分からはしないと決意することがあるわけですが、その元になる人物こそが反面教師になるのです。

教師というくらいですから、通常は大切なことをその人物から学ぶはずなのに、ひっくり返ってその人物とは正反対の自分になろうとするのです。

幼い頃は、当然のことながら学ぶ相手は親ですね。その親が、たとえば激怒して何度も怖い思いをさせられたとしたら、自分は決して激しい怒りを人に向けないようにしようと思っても不思議ではありません。

子供心に、この親は人としてどうなんだろうと軽蔑するなら、そんな人にはなりたくないと思うはずです。

一見そのことは理にかなっているように見えますが、実は癒しというのはそうした囚われからも解放されることが大切なのです。

時には、激しく怒りを表すことがあってもいいし、場合によっては人としてどうなの?と思われるようなことをしたとしても、反省すればいいのです。

人間として生きている自分の全てを使ってあげることのほうが、規制するよりもはるかに大切なことなのです。

自分を癒していこうと思うなら、自分の中に棲んでいる反面教師さんを解任していくことですね。ただし、それはそう簡単なことではないはずです。

なぜなら、子供の頃の決意は非常に固いからです。だからまずは、反面教師さんをしっかり観察し続けることですね。

真に主観的に見るとは?

私たちは自分という存在について、二つの視点から見ています。一つは人から見た自分、つまり客観視した場合の自分です。

そしてもう一つが主観的な視点から見た自分。ここは通常、他人からは見ることができません。だからこそ、隠してしまいがちになるのですね。

会社員のころ、自分や自分の人生はそこそこいいんじゃないかと思っていました。実のところ、それは客観視した場合の自分像だったのです。

都合の悪い部分を隠して、他人の目からはいい部分だけが見えるようにしていたわけです。

一方で人知れずいろいろなことで困っていたのですが、ここは自分だけが把握している主観的な部分なので、他人からは見えません。

この二つがあまりにも乖離しすぎてしまい、とうとうガンを発症してしまったのですが、結果としてそのことで人生を変えることができました。

仕事を辞めて、生き方や考え方などが変わったおかげで、他人からどう見えるかという部分に頓着しなくなったのです。つまり、ほとんどが主観的な自分ばかりと付き合うようになったのです。

乖離していないので、この生き方は楽ですね。自分にも他人にも嘘がなくなり、隠すことがなくなったのです。

さてここからはちょっと分かりづらいかもしれませんが、自分を主観的に見るといっても、自分という人物を見るのであれば、それは真に主観的とは言えないのです。

なぜなら、人物そのものが他人の目を通してでっち上げられたものだからです。結局、客観的な視点によって作られた自己像を主観的に見ているだけなのですね。

瞑想はこのことに気づかせてくれます。瞑想を繰り返すことで、他人という鏡に映った自己像を自分という人物と信じて生きてきたことに気づくのです。

したがって真に主観的に自己を見るなら、そこにはナニモノでもない何とも把握することができない実在だけを見ることになるはずです。

それが私たちの正体なのですね。それは身体の中に収まっているのでもなく、大きさも形もありません。あえて言えば、今この瞬間に見えている全体なのです。

このような見方ができるようになるにつれて、人生を気楽な感じで過ごすことができるようになってくるのです。

何もせずにはいられない

あなたがたは何かに従事していたい。
だからエゴを落とすことはできないでいる。
空っぽで何も従事することのない状態でいられる用意があなたがたにできないかぎり
たとえ必要とされなくっても、それでもなお生を楽しみ祝福する用意ができているようにならないかぎりエゴが落ちることはありえない。

by osho

確かにエゴは何もしないではいられません。とにかく四六時中何かをしている必要があるのです。何もせずにいると、エゴの輪郭はぼやけてくるからです。

思考によってでっち上げたものだからこそ、他の誰かからその存在を認めてもらおうと頑張るのです。

承認欲求があるのはそのためなのです。厳然とした実在であるなら、ただ在ること以外に一体何が必要になるでしょう?何もいらないのです。

必要とされたい、役に立ちたい、愛されたい、こうした欲求はすべて「私」という存在がニセモノだということに気づいているからです。

私のエゴはいつも囁いてきます。何かすることが必要だと。朝起きて、面倒だなと思いながらも、朝の支度をすることがあってよかったと思うのです。

食事をする、シャワーを浴びる、部屋の掃除、仕事、映画を観る、誰かと会話する。こうしたあらゆることがエゴの助けとなっていることをヒシヒシと感じます。

実際、睡眠ですら大きな救いになっているのを知っています。なぜなら、何もすることがない状態のまま、覚醒し続けることが苦痛だからです。

そういう意味で、私のエゴはちょっと可哀想なのです。いろいろなことをさせてもらえずに、今日も生き続けなければならないから。

このブログを書くことだって、エゴの助けになっているのは皮肉なことですけどね。

肉体なしでマインドは存続する?

私たちは生まれてから死ぬまでの間、ずっと一つの肉体をまとっているため、その肉体がまるで自分の一部であるかのように感じています。

けれども、その肉体が自分そのものではないということには気づいています。肉体が入れ替わってしまうといった物語があるのはそのためですね。

自分の肉体と他の誰かの肉体が入れ替わったとしても、自分は自分のままであり続けることができると、私たちはどこかで感じているのです。

その肉体を除外したところの自分というのが、マインドなのです。マインドこそが自我の棲家なのですね。

ところで人間は死んだ後どうなるでしょう?誰もが一度ならずとも考えたことがあるはずですが、なかなか答えはでません。

もしも肉体の一部である脳がマインドを作り出していると信じるなら、肉体の死とともにマインドも死んでしまうことになりますね。

でもマインドは脳がなくても存続するなら、肉体の死はマインドには影響しないことになります。ここから先は経験したことがないので分からないですね。

ただし、マインドという思考の集合体がエネルギーでできていると理解するなら、肉体の死とともにマインドが消えるということではなさそうです。

瞑想の経験から類推すると、肉体について意識しなくなった深い瞑想の状態では、確かにマインドの活動も非常に小さくなってしまうようです。

だから肉体とマインドが密接に繋がっていることは事実のようですが、厳密にいえば肉体がなくてもマインドは細々と存続するように感じます。

どのくらいの間肉体なしにマインドがあり続けるかはわかりませんが、再度活発に機能するためには新しい肉体が必要になるかもしれません。

それが輪廻の仕組みなのでしょうね。だから輪廻とはマインドのエネルギーの伝搬なのです。魂ではありません。

肉体が生きている間にマインドが落ちない限り、輪廻が続いてしまうのはこんな事情があったということですね。

幸福感と真の満足は別のもの

私たちは、願いが叶った時にこそ幸せになれると信じています。多くの人がそのことを信じて疑わないのです。

それは確かに間違ってはいないのですが、私たちが本当に求めているのは幸せではなく、真に満たされることなのです。

なぜなら、幸せというのは不幸せとの比較によって感じ取ることができることなので、幸せの前提としての不幸が絶対的に必要なのです。

したがって、その幸せが長く続くにしたがって、前提となる不幸せのことが薄れてきてしまうために、幸福感は風のようにどこかに行ってしまうのです。

そんなことを望んでいる人はいないはずです。継続的な幸福感というものは存在しないのです。一方、真に満たされることは継続します。

なぜなら、それには明示的に説明できるような理由がないからです。それは一つの気づきだからです。完全に満たされていることに気づくこと。

その気づきは、個人で在るという思考から離れることでやってきます。逆に個人でありながら気づくことは不可能なのです。個人が享受できるのは一時的な幸福感のみ。

個人という分離は欠乏感を生み、非分離つまり全体性はあるがままで非欠乏感、つまり真の満足をその属性として持っているのですね。

今年は、個人であることをまず疑って見ることから始めてみませんか?

デカルトさんに聞かせたい!

個というのは作りごとだ。
<生>は分割されてはいない。
私たちは孤島の群ではない、私たちは一体–
この一体を感じとることだ。
ひとたびこの一体感を覚えたら
時間は消え失せ
空間は無意味になる–
突如として
あなたは時間と空間から押し出される!
と、あなたは在る
ただたんに在る

by osho

↑この言葉をあの有名なデカルトさんに聞かせてあげたかった。勿論生きてる時代が違うので、この時代に生きる私たちと比べるのは酷ですが…。

彼は、「我思うゆえに我あり」という言葉を残していますね。彼は探求するときに、不確かなものをできる限り排除していったのです。

そして最後に残るもの、つまりこう考えていることは動かし難い事実なので、考える我がいることも確かなことだと。

でもこの論理には隠された前提があったのです。つまり、自分という存在がなければ思うことはできないと。

私たちは、何につけ自分ありきで考えるのです。なにかを経験できるのは、この私がいるからだとするのです。これこそが自我のやり方なのです。

デカルトさんはそこに気づくことができなかった。思考はエネルギーとして存在するだけで、自我を前提としません。だからこそ、自我を落とした覚者でも考えることができるのです。

局所的な存在としての個という幻想が、空間的な広がりというものを作ったのです。自分が不在だったあの瞬間、時間はないと気づいていたし、空間には意味がありませんでした。

「ただ在る」これだけが真実なのですね。

エゴとゴールは一心同体

ゴールがどこか別のところにあるとなると、精神がさっそく旅をはじめる。頭が考えることをはじめる。プロセスがはじまる。
未来があるとなると、思考は流れることができる。進路をもつことができる。動く空間をもつことができる。
目的とともに未来がやって来る
未来とともに時間がやって来る

by osho

この社会の常識が根底から覆されることになりますが、そのことについての興味があるかどうかが問われるところですね。

人生に目的がないのであれば、未来というものに何の意味もなくなってしまいます。未来がないのであれば、時間についても意味がありません。

社会はそれでは成り立たなくなってしまいます。だから幼少のころから、誰でも目的が必要だし、それこそが大切なものだと教わるのです。

それをひたすら信じてしまって、疑うこともせずにずっと生きてしまうと、そのことについて一から見つめ直すということに意識が向かなくなってしまうのです。

誰もがいかにゴールに近いところまで辿り着けるかということばかりが気になるのです。幸運にもゴールに到達したように見える人がいれば、羨望の眼差しで見るのです。

けれども、当の本人はすぐにでも別のゴールを設定せずにはいられないのです。なぜなら、ゴールがなければ未来も時間も消滅してしまうからです。

だからこの生き方にはキリがないのです。もうそろそろ未来よりも今この瞬間だけがホンモノだと気づくべきではないかということですね。

ゴールがなく、未来がなければエゴは息絶えることになるでしょうが、その時に初めてかけがえのないものが何かが見えてくるのでしょう。

目的地はエゴとともに消える

白雲には、実のところ、己れの道などない。
ただ漂うのみ–
到達しなくてはならぬところはなく
行く先とてない。
充たされなければならぬ天命はなく
終着するところもない。
白雲の流れを挫折させることなどできない。それが到り行くところ、それがどこであれそれが白雲の到着地となる。

by osho

比較的若いときには、それなりの希望や目標のようなものがあった気がするのですが、年齢を重ねるに従ってただ今日も生きているという感覚になってくるのです。

そうなると、目的地など最初からなかったということが分かってきます。目標がなければ、一体何のための人生なのかと思うのですが、それも若いうちだけ。

目標を作って、そこに到達できたとしてもすぐにまた別の目標が必要となるに決まっているのです。

それがエゴの生き方なのです。そして誰のエゴであれ、まったく同じなのです。エゴにとっては、目的地がない人生などは考えられないのです。

若いうちは仕方ないのかもしれません。夢や希望がたくさんあるし、自分にはそれを実現できる能力があると思っているのですから、そこに到達することこそが極みなのだと思うわけです。

そんな経験を何度となく繰り返すうちに、はたと気づくことになるのです。こんなことを一体どれくらい繰り返したら気がすむのだろうかと。

実際、そこには限りがありません。気がつくまでそれは果てしなく繰り返されることになるのです。

このことに気づいた人は幸いです。目的地など最初の最初からなかったと気づくことによって、全身の力が抜けてその時点で戦いが終わるのです。

生まれてきたことですべてが成し遂げられているということです。あとはただあるがままに、起きることをそのままに受け止めて日々が過ぎて行くだけ。

徒然なるままに、時が過ぎ行くままに、そのままに流れて行くだけですね。