マインドがハートを傷つける

他人から否定的なことを言われたり、ぞんざいな扱いを受けたりすると、私たちは傷つきますね。それは私たちのハートが傷つくのです。

そしてそのハートを傷つけるのは、私たち自身のマインドなのです。マインドは、いつも積極的に働きかけたりして、能動的に活動するのです。

そしてその結果として、自分のハートを傷つけるのですが、私たちは他人から傷つけられると思い込んでしまっています。

他人からやってくる言動は、マインドがハートを傷つけるためのきっかけとして使われているにすぎません。

あるいは、こんなことが起きて自分は幸せだと思うのはマインドであり、それがハートを心地よくさせるのです。

ハートはマインドが活動している限り、マインドからの情報によってコントロールされてしまうのです。ハートはいつも受動的だからです。

ただし、一時的であれマインドが活動を停止している状態においては、ハートはマインドの代わりに全体性へと開いている状態になります。

それが至福の状態です。マインドという邪魔者がなければ、ハートは常に至福を感じているはずなのです。

マインドが活躍している限り、私たちのハートは幸福感に包まれるか不幸にさいなまれるか、あるいは不安になったり一時的な安心を得たりするのです。

そんなマインドの影響を受けないようにして、ハートに真実からやってくる至福を感じさせてあげたいものですね。

マインドの中身は幻想ばかり

あなたはどうにかこうにか戦える態勢もととのえなければならない
未来のことばかり考えているのはそのためだ
未来が希望を与えてくれる
過去は滋養を与えてくれる
そして、そのふたつの真ん中に永遠がある
あなたが取り逃がしているまさに生そのものが
過去と未来のはざまで
あなたは死んでいる

by osho

マインドというのは夢や希望がなければ生きていけないのです。そして、その夢や希望を可能にするのが未来というわけです。

死を恐れるのは、未来が閉ざされてしまい、どんな希望も持てなくなってしまうからなのです。その未来を下支えするのが過去です。

過去をベースとすることで未来が活きてくるのです。つまり、未来と過去というのは二つでセットなのです。

ところが残念ながら、未来も過去もどちらも実在するものではありません。その実在しないもので埋め尽くされているのがマインドなのですから、マインドとは相当に怪しいものだというのが分かります。

そして未来でも過去でもない、今この瞬間だけが実在するものであるのに、マインドにはそれが見えないのです。それを生きることができないのです。

だから「あなた(のマインド)は死んでいる」と↑で言っているのです。マインドの尻を叩いて今この瞬間に気付くようにさせることはできません。

マインドとは思考の塊だから。マインドを改善することは不可能なことです。私たちは、マインドが未来と過去という幻想の中で戦っているのを、ただ見ていてあげればいいのです。

マインドはただのメカニズム

社会生活を営む上で、私たちはある一定のルールに従う必要がありますが、それは言動など、他人から見える部分についてのことだけです。

内側ではどのような思考、考え方、心情を持とうが完全に自由であることを知っています。だからこそ、そのことが個々人を個性的にさせる可能性を秘めているわけです。

そういう意味からすると、私たちの内面は本当に自由だと思っても不思議ではないのですが、実はそうでもありません。

残念ながら、マインドに完全な自由など最初の最初からあった試しはないのです。それはマインドの生い立ちを見れば明らかなのです。

マインドというのは、自分以外の周囲、家族や友人、そして社会によって作り出されたものだからです。

個人ごとに、それぞれのマインドは異なるのですが、それはほんの表層だけなのです。マインド自体のメカニズムというのに例外などあるはずもないのです。

マインドとは、個人であることを司るための分離をベースにした思考群から成り立っている、真実から離れた病んだ非実体です。

だからどのマインドであれ、同じメカニズムで活動しているのです。でなければ、私のようなセラピストの仕事は成り立たなくなってしまいます。

したがって、私たちはマインドというメカニズムによって生かされた一種のロボットのようなものだとも言えてしまうのです。

もしも本当に個性的な存在になりたいのなら、そういう欲望が消えた先にあるノーマインドの状態、つまり覚醒するしかありません。

マインドが消えてしまった後こそ、完全なる自由の状態になるということですね。

お守りのいらない人生にする

会社員の若かりし時のこと。初めて長期の海外出張をすることになったのですが、どういうわけか母親が直前になってお守りを買ってきたのです。

これ持って行ってねと言われて、いらないという訳にもいかず、本心としてはイヤイヤだったのですが、財布に入れたのが運のツキ。

帰国した後も、それを処理することもできず、結局存在を忘れて何年間もずっと財布の中に入れっぱなしになっていました。

自分の不安を自分で何とかしたくてお守りの類を買うのはいいですが、誰かにそれを買って持たすというのは問題です。

しかも、お守りは勝手に処分してはいけないというおまけ付き。私にとっては、こんな面倒なものはほかにないかもしれないと思ったものです。

ありがたいことに、それ以来お守りとは縁のない生活ができているのですが、人によっては精神安定剤のような薬も、ある種のお守りになっていることがあります。

心が安定しないときに服用して楽になったという経験があると、回復した後でも薬が手放せなくなったりするのです。

薬もただ携帯しているだけで安心できるというなら結構なことですが、実際に服用し続けるとなると、ちょっと身体への負担が気になります。

元々、不安というのは自分自身が作り出すものだということに気づいて、そこから逃げずにいる練習をすることによって、不安を小さくすることが可能です。

そうなったらもうお守りなど不要になってしまうはずですね。

組織はすぐに腐り出す

ここのところ、毎日のようにテレビのニュースなどを賑わしているのが、あの暴力事件などをきっかけに混迷している相撲協会です。

お相撲の熱烈なファンではないので、横目で通り過ぎる程度でいいのかなと思っているのですが、気になるのが事件そのものよりも相撲協会の体質ですね。

すぐに透けて見えるのが、俗に言われる隠蔽体質というのでしょうか?要するに、組織そのものを守るために複雑なことが起きるのです。

組織とはそもそもが個々人のためにあるはずなのに、いつしか組織そのものが権威を持つようになって、個々人の上に君臨し出すのです。

こういった現象は、個々人のエゴによる自己防衛が派生して、自分たちが所属する組織を守ることで自己防衛しようとすることで起きてくるのです。

組織がとても大事だと勘違いしてしまう人は、ご本人の自己防衛にしっかり気づいていない人なのだろうと想像できるのです。

自分とはエゴなのだとはっきり気づいているなら、自らの防衛をいつも監視していることができるし、だからこそ防衛を小さくしていくこともできるのです。

それができないと、知らず知らずのうちに自分を組織に投影することで、組織そのものを守ろうとして、都合の悪いことを隠蔽するのです。

こうなると、組織は腐敗してしまいます。組織があれば、利権が発生するのです。だから、組織の運営には余程の注意深さが必要になるのです。

組織を守ろうとすることは一見いいことのように見えるかもしれませんが、それはただの防衛なのです。

家族の関係性を守ろうとして、孤軍奮闘してしまう子供の何と多いことか。その子の苦労は決して報われることはないし、それが本人の防衛を加速させてしまうのです。

組織などいつでも壊して再生させることができるというくらいの心構えが大切なのだと思いますね。

瞑想が不要になるとき

ひとたびあなたが学んで、生のすべてが瞑想となったら、瞑想のことはすべて忘れてしまいなさい。生が唯一の法に、唯一の瞑想になるにまかせることだ。そうなれば、時間は消える。そして覚えておくがいい。時間が消えるとき、死もまた消える。そうなれば、あなたは死を恐れはしない。

by osho

自分がいない状態になってしまったあのとき、確かにあれはすでに瞑想を終えた後でした。瞑想が終わって静かに部屋の空間を見つめていたときだったのです。

突然自分が消えるという現象が起き、そのときに時間がないということにもはっきりと気づいていました。けれども残念ながら、このことをいくら考えても理解はできません。

なぜなら思考自体が時間をベースにしているからです。思考が落ちたときに初めて、時間からも解放されてしまうのです。

そのときに同時に死がないということまで見えていたかどうかは覚えていないのですが、それもきっと自明だったのでしょう。

はっきりと言えることですが、普段の自分の状態が本当の現実だと思っているのは間違いだということです。

現実は現実として確かにあるのですが、感覚がまったく違うのです。何と言うのか、ものすごく洗練された感覚とでも表現すればいいのか…。

普通に瞑想をしていても、このことに気付くことはできないかもしれません。私の経験からいうと、瞑想をしている自分が消えることは至難だからです。

だからといって、瞑想が無駄だということではありません。瞑想はあの状態がやってくるための間口を広げておく準備だと思えばいいのです。

瞑想が不要になるあの瞬間がまた来ないかなと、期待せずにただ淡々と待ってみようと思う今日この頃です。

シンプルさを見抜く

人々は単純ではない
とてもこみ入っていて
まるでパズルだ
彼らは自分自身のことさえわからない
自分が自分の内にどれだけの複雑さを持ち歩いているか–
そして、その複雑さが
彼らが単純な現象を理解するのを許さない
自分が生の一部であり
大海の波のひとつであるという単純な原理を–

by osho

一言で表現すれば、生はいたってシンプルだということです。シンプル過ぎて、そのままでは思考が停止してしまうのです。

そうなると、エゴ自体の機能も停止してしまう恐れがあるため、複雑さを自ら生み出すあらゆる工夫をするようになるのです。

改善したい人、訴えたい人、苦悩している人、闘っている人、病んでいる人ほど人生は複雑怪奇なものになってしまうことに気付くこと。

人は生まれて生きて死ぬ、ただそれだけなのです。これほど平等なものはありません。ところが、思考はどんな手段をつかってでも難癖をつけようとするのです。

私自身も若い頃はそんな感じでした。シンプルに生きたいと願っていたはずなのに、どういうわけか気がつくと日々もがいていたり、苦しんでいたり。

物語の中にガッチリと捕らえられ、すっぽりとはまり込んでしまっていたのです。物語がシンプルであるはずありません。それなら物語など成り立たないのですから。

そしてようやく最近になって、人生という物語をただ見ることができるようになって、本当はすべてがシンプルなんだと気付くようになってきたのです。

シンプルさに気付くなら、思考は自然と暴れなくなっていくものです。思考が人生の主役の座を意識に譲るようになるのですね。

死にゆく自分を看取りたい!?

人は生まれた瞬間に、いつかは死ぬということが決定しますね。生きている間中、死は自分以外の誰かの身に起こるものだと認識していますが、いずれは自分自身にも起きるものです。

それなら、死に行くときにその様をしっかりと意識していることができたらすばらしいとは思いませんか?

家族や大切な人々に看取られて死にたいと願う人もいるでしょうけれど、私は独りでも構わないので自分自身で看取りたいと思うのです。

文献によると、そうやって意識的に死んで行った人が何人もいるようですが、彼らには生きている間に共通する特徴がありました。

それは、常に意識的であり続けることができたということです。ほとんどの人が死の直前になると危篤状態に陥るのですが、それは無意識のうちに死んでいくことになってしまうのです。

苦しまずにまるで眠るように死んでいくという表現がありますが、そのくらい穏やかな死だったということなので、それはそれで素晴らしいことですね。

けれども、本当に眠ってしまうのであれば死にゆく自己を見守ることができなくなってしまうのも事実なのです。

私は死がやってくる瞬間をしっかりと見ていたい。そうして、死が通り過ぎて行った後に残る自分の本質は変わらないと気づいていられたらと思うのです。

真実を見るためには?

私たちは真実から逸れたことを信じて生きています。それはエゴをでっち上げてしまったからなのですが、エゴと自分を同一視してしまったためにそのことに気づけなくなっているのです。

実のところ、真実を信じるということは不可能なこと。真実ではないものだからこそ信じることができるとも言えるのですね。

つまり信じる対象というのは、初めから真実ではないものでしかないのです。それは虚偽、作り物、想像上のものということです。

そしてそのベースとなっているのが私たちのマインドの中に棲むエゴなのです。エゴには実態がないのですが、あたかもそれこそが自分自身だと思い込むのです。

私たちの人生というのは、信じることで成り立っているのです。もちろん、信じないことでも成り立っています。

自分がどれだけ信じることの中で生きているのか、そのことに気づくためにはマインドに注意深くいる必要があります。

実際のところ、何から何まで信じるか信じないかで済ませているのです。真に知っているものなどありはしません。

いいやそんなことはない、私は自分の性別も年齢も国籍についても知っていると断言するかもしれませんが、本当はそういった情報があることを知っているだけ。

このことに気づくことができるなら、自分はただ信じていただけで実は何も知らないのだという地点にやってくることができます。

そしてようやく信じるか信じないかという世界から抜けて、それをただ見る立場にいられるようになるのです。そうなると、真実は非常に近く感じられるようになるはずですね。

自分自身を知ること

もし自分自身を知ることができれば
あなたは知られ得るすべて
あるいは知るに値するすべてを知ったことになる
が、もし自分自身を取り逃がしたならば
どんなに多くを知ることができても
そんな知識は全部ガラクタにすぎない

by osho

↑この場合の自分自身というのは、人格を持った個人としての自分、人物のことを指しているのではありません。

人物としての自分こそが本当の自分なのだと信じているなら、それこそが自分自身を取り逃がしていることになると言っているのです。

その状態で生き続けるなら、どんなに膨大な知識を身につけたとしても、そんなものは全部ガラクタに過ぎないと言っているのです。

知識とは外側から手にした情報に過ぎないので、それは記憶の中にただしまわれているもの。この社会の中では多少役立つかもしれません。

けれども、知識をどれほど積み重ねたとしても、決して真実に近づくことはできないということです。

真実は自分の外側に発見することはできないからです。人物という仮面を見破るくらいに、内側深くに見入ること。

どんな常識も使うことなく、誰かに伝えてもらうこともなく、完全なる孤独の中でただ知ることになるもの、それが真実なのです。

人生という物語の中にどっぷりと浸かったまま、人物としての自分が活躍するだけなら、それは夢の中に生きているようなもの。それはすべてがニセモノなのですね。