真実はただ在る

理由のあるものはすべて自我のものです。あなたが感じている幸福感に理由があるなら、それは自我の幸せなのです。

不幸も同じ。その不幸にこれこれしかじかだから不幸なんだという理由があるなら、その不幸は自我のもの。

喜びであれ感動であれ、悲しみであれ、何であれそこにはっきりとした理由が見つかるのなら、それはすべて自我のものです。

逆に、もしも目の前にいる人のことを愛おしく感じて、それに理由が見つからなければそれは自我のものではなく、本質的なものだということ。

自我とは次元の違う愛を感じているということです。独り静かに目をつぶり、少しの時間なにも考えずにじっとしていると、ふわっとした気持ちになるかもしれません。

私はそれを至福と呼んでいるのですが、この至福感にはどんな理由付けもできません。だからこれを感じているのは自我ではないということですね。

自我から離れて真実に近づいていくと、そこにはどんな理由も見つからない世界が広がっていることに気づくかもしれません。

真実には、理由や目的や価値などといった自我だけが大切にしているものが無いのです。真実はどんな理由もなくただ在るのですから。

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