体験と体験者

体験と体験者というのは、明らかに両者に違いがありますね。ところが、私たちは日頃この二つをしっかり分けて考えているわけではないのです。

その理由とは、体験とは体験者がいなければ成立しないと勝手に思い込んでいるからなのです。

体験者なしに体験はあり得ないと信じ込んでいるということ。これはあまりにも自我の影響が大きいために起きることです。

特殊な事例でこのことを見てみたいと思います。かつて狼に育てられた少年が発見されて、人間に育てられるようになったことがありました。

少年には我々のような自我は全くありませんでした。それは当然のこと、彼を育んでくれた狼には自我がなかったからです。

自我に育てられなければ自我は育たないのです。彼の中に自我がなかったからといって、人間に発見されたという体験がなかったわけではありません。

人間以外の動物にも言えることですが、自我がなくても記憶というのはあるのです。その記憶の中には、人間に発見された事実も含まれていたはずです。

つまり体験というのは、体験者の存在とは全く異なる現象だということです。そして体験者というのは、自我という思考によって作られたものなのです。

この世界に存在できるのは、体験者ではなく、ただの体験なのです。今日から、これは自分の体験だと思わずに、この体験がただ在るだけだと見るようにできるといいですね。

周りのせいにしない

「人は見たいものを見、体験したいことを体験する。」これは、マインド(自我)にとって、最も承服し難い言葉ですね。

特に今とても疲弊していて、どうにも自分自身をコントロールできなくなっている人にとっては、全く意味のない言葉になってしまうでしょうね。

けれども、マインドのたとえほんの一部であっても、このことを受け入れることができれば、物事の見方が変わることで癒しは進みやすくなるのです。

たとえ承服できないとしても、一笑に付すのではなく、敢えてそれを理解しようと努めてみるのです。

すると、隠されていたマインドのカラクリというものが次第に見えてくるようになるはずなのです。

私たちは余裕がなくなると、それを外側のせいにしようとする傾向があるのです。実は自分を責めている人ほど、その裏返しとして人を責めようとしてしまうのです。

たとえば、誰かに裏切られたとしたら、その体験をすることで活力を得るマインドの部分があるということです。

人に不愉快で、理不尽な言動をされたとしたら、その体験によって何らかのご利益があると考える部分があるということです。

もしも怒りをたくさん抱えているなら、その体験によって怒りを感じることができるのです。怒りたくないというマインドとは分離したマインドが引き起こすこと。

このような見方ができるようになれば、自分のマインドがどれほど自分の認識とはずれているのかが分かるようになり、自分を責める必要がなくなるのです。

少しゆとりができた時で構わないので、こうしたことを理解してみようとすることは、決して無駄なことではないはずです。

改善なんて忘れること

私たちは、幼い頃からずっと身近な家族からも、学校の先生や職場の先輩などからも、より良い自分になれと言われ続けて来たのです。

幼い無力な時期には、できない自分が出来る自分に成長するたびに喜びを感じて、もっともっとできるようになりたいと望むようになるのです。

その時に、ある程度認めてもらえればそれで満足することもできて、もっともっとという気持ちに歯止めがかかるかもしれません。

けれども、認めてもらうどころか何だかんだと否定され続けてしまうと、改善病がその後の人生の習慣となってしまうのです。

はっきりと気付く必要があるのですが、自我が自我を改善するなどということは不可能なことなのです。

それは例えて言えば、金メッキのただの棒切れを磨き上げて、金の延べ棒にしようとするのに似ています。

実のところもっと悪いことに、自我を改善しようとすればするほど自我は活力が溢れてくるのですから。

逆にあなたがただ自然でいられる時間が増えれば、自我はひとりでに小さくなっていってくれるのですね。

孤独は妄想

本当はすべてが一つであるのに、それを分離させてしか見ることができなくなったのには理由があるのです。

それは思考のなせる技。思考が働くためには思考の対象が分離した断片である必要があるということです。

だから思考の塊であるマインドの根っこにあるものとは、分離(感)からやってくる不安と孤独なのです。

マインド(自我)と自己同化しているすべての人に共通していること、それは不安と孤独を持っているということです。

私たちは例外なく孤独の中で生きているのです。それを真正面から見ようとすると、絶望してしまうためあらゆる手段を使って孤独から遠ざかろうとするのです。

けれども、分離した個人だという思いがなくならない限り、つまり自我として生きている限りは孤独は付き物なのです。

今猛烈に孤独を感じているとしたら、それはただ正直なだけです。逆に孤独を感じないとしたら、そこには必ず抑圧があるのです。

孤独から救われる唯一の方法とは、自我との自己同化を見破り、この世界にはどんな分離もないということに気付くこと。

その結果、分離というのは不可能なことだと、ただの思考に過ぎないということが腑に落ちるのです。

「あるがまま」を感じる

今、何であれ、起こっていることが起こっているのを感じなさい。その「あるがまま」を感じてごらん。それはそうなのだ。それはただ、そうであるしかない。他にはありようがない。ならば、なぜ抵抗するのかね?

by osho

「あるがまま」を感じるとは、そこにどんな思考も挟まずに感じるということです。思考を挟まなければ、どんな判断も解釈もしないことになるのです。

それが自我と自己同化してしまった私たちにとっては、一番難しいことなのですね。相当に練習を積まなければ、できないことだと言っていいのです。

実際、「あるがまま」を感じるための練習とはどのようにすればいいかというと、私なりにはいくつかの方法があります。

勿論それは人によって様々で構わないのですが、私は次のようなことをしてみます。

たとえば、今聞こえている周囲からやってくるあらゆる物音の背景にある静寂に耳を傾けるという方法。

どこかに集中するのではなく、何を聞こうとするのでもなく、ただ音の背後に隠れている無音を聴くのです。

あるいは、目に映るどんなものにも焦点を合わせることなく、目をつぶった時のあの感覚を感じながら見るという方法。

これをやると、目の前に広がるどんなものにも惑わされることなく、ただあるものを見ていることができるようになります。

こうした方法が理にかなっているのかどうかは分かりませんが、はっきり言えることは、一つひとつの起きていることに捉われずに済むのです。

ぜひ試してみて下さい。

自我は救えない

私たちのマインド、その主人公である自我というのは、決して満たされないというジレンマを持っています。

ジレンマと言ったのは、満たされたいと常々思って頑張っているのに、一方では真に満たされてしまったら自我は消えてしまうのです。

つまり、自我を救うことは決してできないということです。私たちはその自我に自己同化し続けているのですから、困ったものですね。

その自己同化がはずれないので、自分を満たそうとして不可能なことにずっと挑戦しているというのが本当のところなのです。

それはまるで鼻面にニンジンをぶら下げられて、それを食べようとして走り続ける馬のようなもの。

遠目から見ていれば何とも滑稽に映るのですが、本人としてはいたって真剣。それを超えて深刻にまでなってしまうのです。

自我は救うことができませんが、本当のあなたを救うことは可能です。それは単に自我との同化に気づくこと。

そのためには、日々出来る限り自我として生きている自分を見守ること。ただ見ていることができれば、いつかは必ず自我との距離を感じるようになるのです。

その先には、あなたの目覚めがやってくるということですね。

マインドは受信機

テレビやラジオというのは、目には見えないけれど空間を縦横無尽に飛び回っている電波を受信することで、音や画像を見せてくれるわけです。

どの電波を受信するかは、チャンネルを選ぶことによって決定するのです。それと同じことをマインドはしているのです。

ただしマインドが受信するのは、電波ではなく思考という波動なのです。思考は電波と違って人為的に作られたものではありませんが、目に見えないという点においては同じです。

テレビなどの受像機とマインドの最も異なる点は何かというと、マインドは受信した思考をまるで自分のものでもあるかのようにしまい込むのです。

それはテレビに録画機を接続したようなものだと思えばいいのです。マインドは取り込んだ思考をまるで自分自身であるかのように振る舞うのです。

そうやって、無尽蔵の録画機をもっているかのように、マインドは生きてる限り無限に思考を食べ続けるのです。

そうやって、マインド(自我)は益々巨大化して力をつけていくというわけです。一人ひとりのマインドが複雑になってしまっているのは、そうした理由があったのです。

けれども、あなたの本質はマインドでも思考でもありません。マインドが自分の都合に合わせて受信した思考を、あなたはただ見守っていることもできるのです。

それができたときだけは、あなたはマインドから離れていることができるし、思考を見ることができなければそのときにはマインドと同化してしまうのですね。

自我は習慣によって無意識にさせる

自我というのは、いろいろなあなたの行動を習慣にしてしまうという特徴を持っています。

たとえば、朝目が覚めてから出かける支度をするまでの一連の動作があると思うのですが、その時あまり次はこれをやってその次は…みたいに考えないはずですね。

自然と手順らしきものが自分なりに出来てきて、なんとなく自動的にそれが行われていくという感覚があると思います。

それが習慣というものです。習慣の功罪というものを見てみると、たとえば朝起きてコップ一杯の水を飲むのが習慣になっているという場合、これは身体にいいことだとされているので、功罪の功の方だと言えます。

けれども、喫煙が身体に悪いという前提で言えば、寝起きの一服が習慣付いていてなかなかやめられないという場合は、功罪の罪の側となるわけです。

また別の角度からみると、習慣というのは便利なものです。あまり物事を考えなくてもある程度は勝手に身体が動いて必要な処理をしてくれるからです。これも功罪の功の側。

ところが、こうした自覚なしに必要なことを身体がおこなってしまうと、私たちは無意識状態になってしまうのです。これは明らかな罪のほうですね。

そしてそのことが、実は習慣というものの最大の問題だと言いたいのです。何かを習慣化してしまえば、人は意識的であることを忘れてしまうのです。

あなたはどんな習慣を持っていますか?その習慣が作動しているときに、無意識になっているということに気づくことです。

そしてどんなことであれ、習慣によっておこなうということをせずに、常に意識的であるように心がけることが非常に大切なことだということです。

最も深い恐怖

人は、あらゆるものの中でももっとも深い恐怖─つまり、エゴの解体、イメージの解体、人格の解体─を通り抜けて初めて、恐れがなくなる。

by osho

↑上の文章の中で一つ分かることは、エゴとイメージと人格が全部同じものだと言うことです。

エゴ(自我)というのは、思考(自己イメージ)でできているということであり、それが私たちの内面、つまり人格を形作っているということ。

だからエゴには実体がないのです。けれども、自分自身の実体がないということを認めることは決してできません。

それは認めた瞬間に、自分の存在を否定することだからです。その瞬間に自分の死、自分が解体されてしまうというわけです。

その恐怖を見たくないために、それ以外のさまざまな恐怖をでっち上げて、それらで蓋をして本当の恐怖を見れないようにしているのです。

クライアントさんの中には、苦しむのは嫌だけど、死ぬのは怖くないと言われる方もおられます。そう感じているのは確かだと思うのです。

けれども、それはエゴの解体という本当の恐怖をまだ見ていない可能性があると思うのです。だから実感がないのでしょうね。

私自身、たった一度だけその恐怖を垣間見たことがあったと自覚しているのですが、それと対面しそうになった瞬間、すぐに逃げ帰ってきた記憶があります。

いつかはそこを通過することになると言われても、なかなかどうして向き合う勇気がまだないような気もします。

あなたと外側を分けているものとは?

あなたの肉体が何からできているかと言えば、それは勿論これまでにあなたが食したモノからできているのですね。

つまり、あなたの外側に存在したものを食物として身体の中に取り込むことによって、あなたの肉体が出来上がっているわけです。

それではあなたの内面は何からできているのでしょう?私たちは自分の内面は自分独自のものだと思っているのです。

けれども、あなたのマインドは外側からやってきた情報や思考エネルギーから出来上がっているのです。

そのことはマインドというものがどのように作られていくのかということを、よくよく見ていけば分かることです。

幼い頃に周囲にどんなマインドがあったかということにかかっているのです。それを食べ物のようにせっせと摂取した結果がすべてなのです。

外側にあったのは、思考という食べ物だったのです。与えられるがままに母乳を飲んだのと同様に、毎日毎日両親家族から来る思考のシャワーを浴びたのです。

結論から言えば、あなたの身体も精神もそのすべては外側からやってきたものの集合でできているに過ぎないのです。

であるなら、あなたは誰なのでしょう?よ〜く見てみる必要がありますね。