理由がある幸せは偽物

本当に幸せな人というのは、自分が幸せなのか不幸なのかということについて、考えることがないのだろうなと。

逆に言えば、自分は幸せなのだろうかと考える人は、本当には幸せな人ではないということになるわけです。

自我の幸せとは、◯◯だから幸せだという具合に、必ずや幸せであるための理由が必要なのです。

その理由がなければ、幸せかどうかを判断することができないのです。判断が必要というのは、幸せを思考でとらえているということ。

そうなったら、その幸せは誰かとの比較であったり、不幸ではないから幸せなのだというように、理屈がついて回るのです。

それは左脳が判断を下した幸せであるのです。けれども、真の幸せには思考が入り込む余地がないのです。

一方で、右脳というのは常に満たされているのです。もう結論が出たと思います。要するに、真の幸福とは左脳が落ちて右脳だけになること。

これ以外にはないということです。それを擬似体験できるのが瞑想ということになるのですね。

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瞑想三昧で分かったこと

今日一日完全なる休みを取って、丸々何もせずに横になって寝るか起き上がって瞑想するかだけにしてみた。

瞑想は気持ちはいいのだけれど、身体にとってはかなり苦痛なようで。身体というのは、動いていたいものなのだなと。

それをずっと一つの姿勢でいさせるのだから、嫌がって当然なわけで。けれども、身体を固定しなければマインドが鎮まらない。

1時間を超えて瞑想し続けると、腕が痛くなったり肩が凝ってきたり、様々な抵抗がやってくるので、無理せずに横になる。

この繰り返しで分かったことは、自分の瞑想というのはある程度、1時間くらいは続けていないと、深くは入っていけないのだと。

そう考えると、毎朝の瞑想はたぶん40分くらいしか時間が取れないので、これは随分と損をしてきた気がしてしまう。

明日から30分くらい早めに起きて、あと20分くらい長く瞑想ができるようにしようかなと考えてみたり。

ただ一度そのモードまで行くと、トイレ休憩くらいでは途切れることもなく、またすぐに再開できるようで。

左脳が囁く。お前、こんなことをずっとやってばかりいたら、完全に廃人になってしまうよと。

一方で、同じ左脳(自我)がこうも言っていた。このまま、消してくれたらありがたいと。消えたいんだなあ。

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左脳と右脳の二重生活

毎度お馴染みになっている左脳と右脳の話しなのですが、この両者があまりにも明確に違いがあることに、普段私たちはあまり気づこうとしないのです。

そもそも、自覚できるのは左脳の方ですよね。自分という自我がいるのも左脳だし、だからこそ他人が絶対的に必要で。

当然のこと、社会の一員として暮らすようになるのも左脳のおかげなのです。左脳が、計算や勉強、計画を立てるなどの日常的な生活を司る。

人と比べて一喜一憂してしまうのも左脳のおかげ。自分は自分だと言い聞かせても、またすぐに比較大好きとばかりの毎日。

その一方で、右脳の自分は社会から外れて一人でいるのです。じゃあ寂しいのかというとそういうわけでもないのです。

右脳側にいる私は、イメージすると風来坊のような生活を望んでいるのが分かります。それで大好きなあの名言。

「明日は明日の風が吹く」になるわけですね。左脳側の私は、少しでもいい暮らし、少しでも恥ずかしくない人生を望んでいて。

しっかりしなければとか、ちゃんとしようよとか、とにかく真面目。人に迷惑をかけないように、立派に生きようと。

風来坊の方は、肩の力を抜いて好きなように生きればいいよと。所詮人生はゲームのようなものだし、それを楽しんじゃえばいいじゃないと。

どちらが正しくて、どちらが間違っているということではないよと言っているのも右脳の自分であることも分かりますね。

何故こんな事が起きるのかな?

凄く珍しい事が起きていて、実はブログをアップする直前に、知らない病院にいるのです。

久しぶりに高校生の時の友人と飲んでたのですが、きっと飲み過ぎたのでしょうね。

ビロウな話でアレなんですが、オシッコが出づらくなって、辛かったので生まれて初めて救急車を呼んだのです。

今全く知らない病院の深夜の待合室でこのブログを書いているのですが、とにかくさっきまで辛かった。

辛い患者に対して、ああでもないこうでもないと質問をされて、本当に嫌気がさしてしまいました。

最近生まれて初めての経験をする事が多いなと。理由は分からないのですけどね。

今日のことは、またいつか書くつもりですが、いったい何でこういう目に遭うのか1人で考えてみたいと思います。

4歳の男の子の言動に釘付け

この数年の間、あるご家族の微笑ましい動画を観て楽しんでいるのですが、主役は4歳になる男の子とおじいさん。

見るからに素晴らしいご家族に囲まれて、理想的な幼少期を過ごしているんだろうなと、ちょっと羨ましい気持ちも入りながら観ているのです。

先日は、ご家族全員でこどもの日に外食に行っている時の動画を観たのですが、あまりにおもしろくて何度も観てしまいました。

その男の子が、食べ物を取ってもらって「ありがとよ!」と言ったり、何かを食べて「これ、おいっすぃ!」を連発しているのです。

画面には現れないパパが、その言葉を聞いて誰の真似をしているんだろうと言うと、ママがきっとジイジかもねと。

それを聞いていたバアバは笑うんだけど、当のジイジは黙ったままで黙々と食事をしているのです。

なんとも微笑ましいご家族の食事場面。もしも可能なら、この先10年くらい動画を上げ続けてほしいものだなと。

その子がどんな中学生になるのか、是非見たいものだと思わざるを得ませんね。きっと社会に出てからも敵の少ない、自由な人生を生きていけるのかなと。

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マインド内の綱引きに要注意

私たちのマインドの中というのは、相反する方向へと引っ張ろうとするものどうしが、互いにせめぎ合っているのです。

気楽に生きたいと願っている反面、気がつくと深刻な心持ちになっていたりするものです。この真逆を誰もが経験するのです。

あるいは、できる限り自由でいたいと願っている反面、何かに対して執着する心がやってきて、自分の自由を台無しにするのです。

このようにして、一人のマインドの中で互いに綱引きをして、引っ張り合いをしてしまう部分がいくらでもあるのです。

こうしたことって、ある程度自分の内側に意識を向け続けていなければ、なかなか気づかないものなのです。

綱引きは側で見ている分には面白いものですが、それが自分のマインドの中で繰り広げられているとしたら大変です。

マインドは真逆の方向へと引き裂かれようとするのですから。小学生か中学生の頃の運動会で、父兄の綱引きがあったのです。

その時に、綱引きに参加している全員が一度に尻餅をついたのを見てびっくりしたことがあるのを思い出しました。

そう、綱がちょうど真ん中でぷつんと切れてしまったのです。もしもあなたのマインドで、こんなことが起きたらしばらくマインドは使い物にならなくなってしまうかもです。

そうならないためにも、できるだけ自分のマインドの中で何が起きているのかに気づいているようにすることですね。

マインドのどこを見ても、張り詰めたような緊張がないように気を配ってあげることです。

万が一綱引きを見つけてしまったら、一旦その戦いを保留にしましょう。そしてその休止状態の間に、じっくりと気持ちを立て直すことですね。

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今この瞬間と同期する

ずっと揺れているものがある。それが左右になのか、上下になのか、あるいは前後になのかは分からない。

その揺れが身体に起こっているものなのか、あるいはマインドに起こっているものなのかも分からない。

でもいつも揺れている。そして、その揺れをしっかりと感じられるのは、大抵が瞑想をしているとき。

それ以外は、ほとんど気づくこともなく生活しているらしい。今日も今日とて、その揺れが止まらずにいる。

その揺れによって、きっと今この瞬間にいることを難しくさせられているのだろうと感じる。揺れることで今と同期できずにいる。

それが、何の脈絡もなく何かの拍子にその揺れが一瞬止まることがある。もちろん瞑想中に限られるけれど。

その時、今この瞬間という深みに入って行くのだろうなと。その感覚に魅了されて、今日も瞑想するけど、そうそうやってくるわけでもない。

もしも熟達して、いつでもその揺れが止まり、今この瞬間という奇跡的な領域とずっと同期していられるようになれたら、嬉しいなと。

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予想+感情=期待→執着

自我というのは、とにかく現在にじっとしていることができなくて、いつも過去や未来へとフラフラしているのです。

特に未来へと思考を飛ばす時には、必ず何らかの予想を立てずにはいられないという習性を持っているのです。

それも単なる予想であれば問題ないのですが、そこへ感情を混入させることで予想から期待へと変化させてしまうのです。

一度期待へと変わってしまうと、その期待通りの未来がやってくるかどうかで、精神状態が大きく左右されることになるのです。

なぜなら、期待というのはそうなって欲しいという執着を生み出すものだからです。執着は人を苦しめる要因の一番手です。

執着は、私たちの自由で気持ちのいい毎日を台無しにしてしまいます。とある場所に固着させて、身動きが取れなくなるのです。

そんなことを自分自身で自分に対して課しているのです。そのことにしっかりと気づく必要があるということです。

朝起きてから夜寝るまでの間に、一体どれ程の期待をしているのかを一度しっかり見つめてみることです。

きっと100や200のオーダーではないはずですね。何気ない期待が知らぬ間に執着を生み、人生を不自由で気持ちよくないものへと変えてしまう。

このことを忘れないことですね。一番手っ取り早いのは、未来へと思考を飛ばさないように注意深く生きることですね。

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自分が消えてなくなることはない

私たちにとって最も恐ろしいと感じるのは、自分が消えてなくなることです。自分という存在が無くなってしまうことの恐怖。

この目に見える世界だけが本当の世界だと信じている人にとっては、文字通り死んだら全てがなくなると思うのですから、それは怖いです。

その一方で、肉体の死を迎えた時にどうなるのかなと想像すると、きっと順当に行けば個という間違った思考が正されていくのだろうなと。

そして、個は元々なかったということで全体性へと溶けていくのです。そうやって、自我は自然と消えていくことになるのです。

けれども、その時に自分が消えてしまうのは絶対にイヤだとなれば、自我を組み立てていた思考群がそのまま残るのかもしれません。

そうなると、私たちの意識そのものは無条件に全体性の中に戻っていくのですが、自我の思考だけが残るのです。

そして、残った自我という思考は、あたかもそこに個として残存しているかのように見えるのかもしれないですね。

それが、もしかすると成仏しないでいる霊と呼ばれる状態になるのかなと。浮遊霊とか、地縛霊とかと呼ばれるのも、そうしたものかも。

純粋な意識の立場からすれば、大元の意識へと戻るだけなので自分が消えるのとは、全く異なるように思いますが、どうでしょうね?

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知らないことは悪じゃない

外側の世界で生きていると、あれも知っているこれも知っていると、知っていることに重点がおかれるのです。

知らないよりも知っていることで、何かと有利に働くと思えるからかもしれないですね。頭のいい人は物知りだし。

けれども、一度内側の世界に入り込むと、あれ何も知らないじゃないということに気づくことになるのです。

そしてその何も知らないは本質的であり、そこには奥深さを感じるのですが、外側で知っていることは薄っぺらな感じがしてしまいます。

なぜなら知っていると思っている対象物は、そのすべてが偽物だからです。だから一過性だし、生まれては消えていく。

本当は、生まれてもいないし、だから消えていくということもないのです。初めから何もないのですから。

そのことに一度気づいてしまうと、知っていると思っていることもどうでもいいことだと分かるのですね。

一方の内側の世界で何も知らないは、この次元にいる限りは知る可能性もないということ。深遠なナゾがそこには広がっているのですね。

高次元へと戻る時が来たら、その時には多くのことが明かされることになるはず。それを楽しみにしておこうと思います。

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