私達人間は、自分の身体からくる信号である五感を頼りにして生活しています。超能力的には第六感と言われるような不思議な感覚もあるのかもしれません。
いずれにしてもそうした感覚のことを知覚とも呼ぶのですが、それを頼りにしているというのも、五感のうちの一つでも機能障害を起こすと、途端にとてつもなく不便になることを知っているからです。
つまり頼りにしているなどという言葉では言い表せないくらいに、自分の知覚がすべてだと言っても過言ではないということです。
ですから、自分の知覚を信じてしまっても当然なのです。知覚から入ってくる情報によってのみ、我々は自分の外側の世界を知ることができるのですから。
しかし、実はこの知覚というものは非常にいい加減なものでしかないのです。外の世界の情報を正確に伝えてくれるものと思い込んでいますが、明らかに違います。
なぜなら、知覚には外から入ってきたナマの情報と、それを解釈する部分とに分けられるからです。通常、私達は入ってきたナマの情報をそのまま知覚することはしません。
必ず、独自の解釈を付加したあとに知覚として感じとるのです。あるがままを見るということが難しいのはそうしたことが原因です。
もっと端的に言えば、私達は自分の知覚を歪めて自分に都合のいいようにして使っているということになります。
知覚を歪めないで使うことは相当に困難を伴います。歪める方向は大きく分けてポジティブな向きとネガティブな向きとがあります。
ポジティブな方は、「あばたもえくぼ」のように、より肯定的に情報を歪めるのですが、ネガティブな方は、嫌いな人の場合には笑顔すら気持ち悪いと感じてしまうなどです。
知覚とは、実はそのようにして自分に都合のいいようにすべてを認識するためのツールであると見ることができるのです。
ですから、もしも本当に知覚を歪まない方法で使うことができたとしたら、その時はきっと知覚そのものの存在理由がなくなってしまい、知覚することがなくなってしまうことになります。
「奇跡のコース」では、その時にこそ知覚が知識へと変換されると教えてくれています。この深い意味はこの本を読むと理解できるようになります。ご興味があれば、勉強会に参加してみて下さい。