特別な関係

私たちは自分にとって大切な人達とそれほどでもない人達とを区別していますね。大切な人は、家族や親戚、恋人、友達や同僚、お世話になった恩人など、いろいろです。

一方それほどでもない人というのは、ただの知り合いやそれほど親しくない友人、街でたまたまみかけた人など、その他大勢いるわけです。

大切な人に対しては愛を感じ、そうでない人にはこれと言って何も感じないはずです。最も大切な人達と自分との関係のことを、「奇跡のコース」では、特別な関係と呼んでいます。

そして、結論から言うと、特別な関係というのは「エゴの最高傑作」だと言っています。一番愛する人との特別な関係のことをそんなふうに言われたら誰だっていやな気持ちになりますね。

でもただ不満に感じるだけでは気づくことができませんので、そんな表現をする真意を考えてみたいと思います。

以前このブログで愛とは全てが一つであるとする想念だということをお話ししました。すべてが一つということは、私たちが個々に分かれていると思っているものも、本当は一体なのだと分かっている想念だということです。

したがって、よく聞く言葉ではありますが、愛は何に対しても誰に対しても分け隔てなく与えるということしかできないということです。一つであるものを分けることは不可能ですから。

だから愛にレベルなどはないとうことですね。あの人のことはすごく愛しているが、この人のことは少し愛するとか、自分の子供はとても愛しいけれど他人の子供はどうもねえ、というのは愛ではないということです。

特別な関係とは、その人を他の人とは分離しておいて、その人を特別に愛するということですから、愛の定義と矛盾していることになります。

でも私たちは、大切な人を愛しく思う気持ちこそ、本当の愛なのだと信じているわけです。特別視し、他と区別するのはエゴの分離の基本なわけですから、それを愛と勘違いさせられているということで、「エゴの(騙しの)最高傑作」と言われたわけです。

我が子を愛しいと思う、ただその気持ちが愛とは程遠いと言っているのではありません。そうではなくて、それと同じように他人の子も愛しいと思えるかどうかが問題なのです。

我が子を愛しいと感じていても、同時に他人の子に愛を感じなければ、それは全くのエゴの状態であるということです。愛を与えるということは、愛の特質からして特別な関係にある人に対してと同様にすべての人に対してもできるはずですね。

そうすると、元々のこの特別な関係と言う言葉自体に意味がなくなってきます。特別という概念そのものが愛ではないからです。

私たちは通常エゴに乗っ取られて生活していますので、ほとんどの場合にこの特別な関係を大切に思い、それを維持していこうとしています。

自分の愛がホンモノかどうか調べるには、特別な関係ではない人に対してどれだけ暖かい愛を感じることができるかを見てみればいいということになります。

快適な暮らし

何年か前にハワイ島に別荘を持つという構想を練っていたことがありました。勿論先立つものは何もないので、ただの妄想の域ではあったのですが、そういった類のことを考えたのは生まれて初めてだったと思います。

島全体が溶岩からできているハワイ島であれば、何処もかしこもある種のエネルギースポットのようなものだろうし、オワフ島などとは比べ物にならないくらいに自然がいっぱい残っています。

そこに豪華な別荘を建てて、昼は海で波に乗り、夜はジャグジーに浸かりながらシャンパンを飲んで、満天の星空を眺める、そういった夢を少しでも現実のものと思おうとして天体望遠鏡だけは購入しました。

そんな生活が、一年のうちの数ヶ月もできたら本当に快適だろうなと思っていました。そういった快適さというのに憧れを持たないという人はいないかもしれないですね。

ところが、「奇跡のコース」を学んで行くうちに、そういった快適な暮らしというものに疑問を持つようになってきてしまいました。その理由は二つあります。

一つは、その快適さのターゲットとなるのは自分の身体にあるということです。確かに身体が快適であれば、心もそれなりにのんびりして快適になるように思われます。しかし、その心の快適さはあくまでも気晴らしのレベルに過ぎません。

コースの教えでは、我々の本当の姿は身体ではなく、スピリットだと言うものです。身体はエゴが作ったニセモノであり、その身体を快適に保つことを優先して生きるということは、エゴの思う壺であるわけです。

もう一つは、快適さと幸福感は全く違うということの気づきです。幸福感は与えることからしか得ることはできないということをよく見つめてみれば、身体の快適さは足りないものを手に入れる生き方であって、与えることとは相反することだと分かるはずです。

勿論、快適な暮らしが悪いということではありません。あくまでもそういったことは物理的なことであって、それを人生の目標にしているうちは本当の幸せはやってこないと分かる必要があるということですね。

とはいうものの、人一倍身体の快適をいつも求めている自分としては、この気づきは痛いなあというのが本音です。

新型ウィルス

新型インフルエンザが世界中で猛威をふるっていますね。東京で三例目の感染者がこの近くの三鷹で確認されたらしいです。外出後、手洗いとうがいを励行するくらいはしっかりやりたいものですね。

人類の長い歴史の中で、ウィルスとはそれなりにうまく共存してきたはずなのに、どうも最近はワクチンの開発とウィルスの突然変異による進化とのいたちごっこのような状態になっているようです。

昔に比べて人の防衛反応が過剰になってしまった結果なのかなとも思います。というのも、ウィルスに限らず、ばい菌などについても、ものすごく潔癖症とも思えるくらいに平均的な意識が変化しているように感じています。

衣服や身体などの清潔さを過剰に意識して、殺菌や除菌する習慣が各家庭の中に浸透しているように思います。

神経質な親が、無菌状態で子供を育てようとしてしまうと、結局耐性のない子供になってしまい、ちょっとしたことで熱を出したり、すぐに風邪をひいてしまうような子供になりかねません。

私が子供の頃などは、ラーメンにハエが入ってしまってもそれほど大げさな反応はしなかったと思いますが、今ではカップラーメンにハエが入っていたらニュースになってしまうようなご時世ですね。

家にゴキブリがいるのはいやでしたが、今ほど神経質に退治するわけでもなかったような気がしています。

とにかく、汚いもの、不潔と感じるもの、そういうものに対して過剰な防衛をするようになってきているのは間違いないと思います。そして、防衛は攻撃的なエネルギーを表しますね。

その攻撃的なエネルギーが新型ウィルスの攻撃を受けることになる一つの要因になっているのではないかと密かに思っています。

攻撃すれば必ず攻撃されてしまうのです。「奇跡のコース」には、どんな場合であっても攻撃する正当な理由など一つもないと言っています。攻撃することで、安全を得るというのはエゴの発想ですね。

それが人類の絶えざる戦争の歴史を作ってきたのです。確かに、身に降りかかる火の粉は掃わねばならないのですが、できるだけ防衛しないように心がけることが結局ウィルスともうまくやっていくことに繋がるはずです。

そして、それはワクチンの開発に力を注ぐよりもきっと効果があることのように思います。みんなで攻撃することから自分の心を開放するように仕向けてあげることです。それも自分の選択によってできることなのです。

人は変わらない その2

昨日のつづきです。

人は様々な経験を積んで、いろいろなことを学習して人格形成して立派な人物になっていくのですが、それでもその人の本質的な個性や特徴、ものごとの考え方などは変わらないということでした。

一番簡単な例で言うと、運動が苦手な人が毎日ジョギングを続けていくうちに、フルマラソンで完走できるようになったらそれはすばらしいことですが、その人の基本的な性格は変わりませんね。

でももしその人が何となく自信がない人だったとしたら、苦手意識のあるものを克服したことによって、少し物事に自信がついてくるかもしれません。頑張ったら自分もできるんだという成功体験による、気持ちの変化は確かにあるかもしれません。

しかしそれでも、何か大きな失敗をしてしまったらまたすぐに今までのように自分に自信のない感覚が戻ってくるかもしれません。

経験や学習による私たちの変化というのは、反応の仕方が変わるということです。それが人格形成による変化だと言ってもいいと思います。中身は変わっていないのです。

「奇跡のコース」は自分を幸せな状態に変えていくための学習書ですが、その教えに沿って学んでいったとしても、本質的な自分が変化するわけではありません。反応の仕方が変化するだけです。

これはどういうことかというと、私たちの心はエゴの部分と愛の部分から成り立っています。そして、その人の基本的な性格、個性や特徴というのは、そのエゴの部分のことを言うのです。

たとえその人が愛情深いいい人だとしても、その個性を作り出しているのはエゴの部分なのです。そして、この部分そのものは小さくなったり増大したりすることはあってもその中身が変わることはありません。

その人の反応が変わるというのは、そのエゴの部分と愛の部分のどちらをどれだけ使うかということが変化するだけなのです。そしてそれは、あくまでも自分の選択に委ねられています。

私自身の最近の変化でいうと、理不尽なことが自分に降りかかってきたとしても以前のように怒りが出てこなくなってきました。それは、私の個性が変化したからではなくて、怒りを選択しなくなってきたからであって、それによって私の反応が変化したに過ぎません。

本来の自分を変える必要もありませんし、どんなに努力したって変えることなどできないのです。ただ、心の訓練によって愛を選択することを増やしていくだけです。そのことによってのみ、人はより幸せな状態へと変化することができるのです。

人は変わらない

「三つ子の魂百までも」という言葉が昔からありますね。どんな意味かは諸説あるようですが、一般に三歳までに出来上がったその人の基本的性格は、百歳になっても変わらないものだということですね。

先日、学生の時の仲間たちとお酒を飲む機会があったのですが、お酒が入ってきて当時の話題に戻ると全員が全くその時に戻ってしまいます。卒業してから30年以上経つというのにです。

私を含めて全員が、卒業してから社会人として働いたり家庭を持ったりと様々な経験をしてそれなりに人格形成してきたはずなのに、一瞬にして学生の時と全く同じ心境に戻ることができるのです。

そうして、風貌こそみんな大いに変化してきているのですが、やっぱりあの頃の一人ひとりの性格や物事の捉え方などの個性は全く変化してないのです。だからこそ、話していて違和感なくすぐにあの当時に全員が戻ることができるのです。

私自身、約10年前に会社を辞めて今の仕事をするようになってから、小学生の時の自分にすごく近くなったような気がしています。幼くなったというよりは、その頃不思議に感じていたことや素朴な疑問などがまた戻ってきたのです。

確かに今の自分は小学生の時と比べたら様々な体験や経験をして人生の勉強をしてきたわけで、その自分が小学生の時の自分と全く同じという気はしませんが、何か自分の本質的な個性や特徴などは変わっていないように思うのです。

きっと会社員の頃は、自分の中に残っていた小学生の部分を使う機会がなかったのか、意識的に使わないようにして生活していただけなのだろうと思います。それが、一人で今のような仕事をするようになって、その抑圧がほどけてきたのでしょうね。

そうやって考えてみると、もしかしたら本当に三歳の頃の自分の性格や考え方、特徴などがずっとベースとしてあり続けるのかもしれないと思えてきます。ただし、表面的あるいは外面的には子供から大人へと進化します。

しかしそれは、作りこんだものであり、ある種の鎧のように自分を守るためのものであるだけなのかもしれません。じゃあ、人格形成って一体何なのだろうということになりますね。

つづく

能力について

私たちは自分の能力について、人の能力と比べてそれより優れているとか劣っているというように、幼い時からずっと気にし続けてきました。親も大抵はそういった見方で子供を判断してしまいますね。

その理由はいたって簡単です。それは、能力や才能に恵まれたら、そうでない場合に比べて幸せになる確率が高くなると信じているからです。

運動能力に優れていれば、オリンピックの選手になって金メダルを狙えるかもしれないし、音楽の才能があれば一流のミュージシャンや音楽家になれると思うわけです。

知能指数が高ければ、レベルの高い学校に行って、いい仕事に就き、いい結婚をして、いい子供を授かって、豊かな生活をすることができると期待します。

コツコツと努力をすることが出来るのも一つの才能だなどと言う人もいますね。そのようにして、あらゆる個性や特徴などについても、その人の能力や才能としてみるクセがついてしまっています。

特に10代、20代の若者の場合には、自分の人生をこれから切り開いていくに当たって、もっとも頼りになるのは自分の能力だと思っているわけです。そのために、能力や才能を人と比べて劣っていると見ると、それだけで自己否定的になってしまったりするものですね。

しかし、どんなにすばらしい能力や才能を持っていたとしても、そういったものが比べられるようなものであったなら、それが自分を幸せにすることはできません。なぜなら、比較するのは愛ではなく、エゴの世界であるからです。

昔、ある有名なギタリストがインタビューの中で、「あなたよりも腕のいいギタリストは誰かいますか?」と聞かれて、「誰が一番かと比べても仕方ないよ。またすぐにもっとうまい奴が現れてくるのだから。」と答えていました。

愛は比較するということができません。能力や才能は自分を幸せにするためのツールではないと思えるようになったときに、愛が発動するかもしれません。

私たちには実は幸せになるための能力が、すべての人に平等に与えられているのです。その能力だけは比較することができません。なぜなら、それは能力というか我々自身でもあるからです。

本当の幸せである永続的な心の平安を得るために必要なことは、自分たちが本当は何者なのかということを思い出すことだからです。そして、それを思い出す能力はすべての人が生まれながらに持っているのです。

自分が何者かを知りたければ、過去のブログ「自分の本当の姿」を読み返してみて下さい。私たちが日頃能力だと思っているものは全く使わずに、自分を思い出すことができるはずなのです。

勝ち組、負け組

会社を退職して、今の仕事を始めてすぐの頃に、ある人にあなたは負け犬だよと言われたことがあります。企業の中での激しい戦いに負けて、尻尾を振って逃げ出した負け犬なんだと。

自分では全くそういった気持ちはなかったのですが、言われたらなるほどそういう見方もあって当然なのだろうと新たな発見をしたのを覚えています。

そして最近では、負け犬よりももっと一般的に使われる言葉として、勝ち組、負け組という表現をすることが増えているようですね。

基準はよく分かりませんが、人生の成功者とそうでない者とに分けるということなのでしょうか。人生というと大げさかもしれませんが、例えば女性の場合ですと誰もが羨むような男性と結婚をすれば、きっと勝ち組と言われるのでしょうね。

このような言葉は軽薄なものだと知りつつ、面白がって使っているのが今の日本の文化なのかもしれません。でももし、この言葉で自分を表現するとしたら、あなたなら一体どちらになると思いますか?

大切なのは、人が自分をどう評価するかではなく、自分が自分をどう評価しているかということです。それともう一つ、一番大切なことはその評価の基準ですね。

私のコラムやこのブログを読んで下さっている方であれば、もうお分かりだと思いますが、人生で価値のあるのは唯一つ、心が満たされていて平安であるということ、つまり真の幸福感なのです。

ですから、敢えて勝ち組か負け組かの評価をするとしたら、この幸せかどうかでしか判断することはできないのです。そして、それを評価できるのは唯一自分だけということになります。なぜなら、本当に幸福かどうかは決して他人には判断できないからです。

会社員時代、私は自分のことをそこそこいけてるんじゃないかと思っていました。それは、他人から見た一般的な評価基準で自分を見ていたからでした。でも今はそういった物差しでは全く自分を見なくなってしまいました。

世間の評価では、きっと今の私は負け組になるはずです。そして、実際にそう言われたとしても全く気にもなりません。それは、自分を内側から見つめて自分のことが分かっているからです。

そして、真の幸せを評価基準にした途端、もう他の誰のことも勝ち組か負け組か言えなくなってしまいます。そうなったときに、初めて自分はまっとうな判断基準を手に入れたのだなと思って下さい。そして、その目で自分を内側から見てあげて下さい。

今の本当のあなたの姿が見えてくるはずです。

期待を手放す その2

昨日の続きです。

期待しないということが人生を平安な気持ちで送るために是非とも必要なことだということをお話ししました。

しかし、期待しないということをイメージすると、何だか夢も希望も何にもないつまらない人生になってしまうのではないかという印象を持った方もいらっしゃるのではないでしょうか。

実はそのように感じるのは、日頃私たちが今この瞬間に満足できてないことを解決するために、未来に希望を託して生きているからなのです。

今はお金がなくて貧しいけれど、いつか仕事が順調になったあかつきには、欲しいものを沢山買ってやる、というように未来に期待することで今を何とか乗り切ろうとするのですね。

今までは自分は臆病で人間関係もうまく行かなかったけど、あの能力開発セミナーを受けて、きっと積極的な自分に変わってみせる。そうして、今までとはまるで違う人生にしようと思うのです。

期待するというのは、実は足りない何かを手に入れようとする行為と同じなのです。ただ、それが今できないので未来に対して手に入れられるという期待をするのです。

手に入れることが今であっても、未来であっても、そのことで幸せな人生になるということはありません。このブログではいつも書いていますが、幸せとは永続的な心の平安なのです。

それは、何かを入手したからといって実現するわけではありません。どんなものを手に入れることができたとしても、満たされるのはほんの一瞬であって、しばらくするとまた何かが足りないという不満足感がやってきます。

勝負は今なのです。未来の何かに期待している生き方をしている限り、明日になっても来年になっても、その時になったらやはり「今」を満足することはできないはずなのです。

手に入れることを期待する代わりに、与える側になることです。今与えることにエネルギーを注いでいると、期待することから意識が離れていくのです。

期待を手放す

どこの親も愛する我が子には、いろいろな期待をするものですね。幸せになって欲しいという当たり前の期待から、立派になって欲しい、豊かになって欲しい、病気や怪我をせずに元気でいて欲しいと思うものです。

それは愛していればこその正当な期待だと言っていいでしょうね。また反対に自分勝手とも思えるような子供への期待もあります。例えば、老後の面倒を見て欲しい、親の望む進路を進んで欲しい、ずっとそばにいて欲しい等々。

期待というのは、勿論自分への期待もあります。もしも、なんらかの病気に罹っているのであれば、その病気が治って欲しいと願うものです。もっとこういう自分、理想とする自分に少しでも近づきたいという期待、ダメなところを直したいという期待もあるでしょう。

考えてみるまでもなく、私たちは日々沢山の期待を自分や周囲にし続けています。それが、人を成長させる元になるとも考えられますね。しかし、その期待があまりにも強過ぎると、人生そのものが愛のない殺伐としたものになってしまう可能性があります。

期待するということは、その期待通りの結果を望んでいる心の状態ですから、望む結果が出た場合にはいいですが、出なかった場合には何らかの不満足感が残ってしまいます。

ということは、単純に考えても、期待している場合と期待していない場合で比べたときに、期待していない方が不満が残る可能性が少なくなるということになります。でもこんな事は誰でも知っていることですね。

それならなぜ我々は期待することをやめられないのでしょうか?期待するということは、今の状態を変えたいという思い、今のままではダメだという気持ちが前提としてあるということです。

現状に完璧に満足している人が何かに期待するでしょうか?そういう人が期待するとしたら、結果がどうであれ、それには無頓着でいられるような期待の仕方をするはずですね。

例えば、人間関係がうまく行かないときに、あの人がもう少しこうなってくれたら、もっとうまく行くはずなのにというような期待をしてしまいます。そして、その期待は大抵裏切られることになって、その結果腹が立ったり攻撃的な気持ちになってしまうこともありますね。

このブログでいつも出てくる投影について思い出して下さい。あの人が自分に対してそういう態度をするのは、全部自分の内面の投影による結果だということでした。だから、あの人がもっと分かってくれたらとか、そういった期待をするということに意味はないということになるのです。

つまり、それにもかかわらず相手に期待してしまうということは、投影の結果だということをいつも忘れてしまっているということになりますね。ですから、常に投影のことを思い出すようにする必要があるということです。そうすることで、無駄な期待をしなくなることができます。

また自分の能力についても、自分はやればもっと出来るはずだという自分への期待をしているために、頑張っても結果が出なかったりすると、自己嫌悪や自己否定になって、自分を責めてしまうということがよくあります。

今の自分を徹底的に受け入れることができたら、自分への期待はしなくなるはずです。実は、私たちは元々ある欠乏感や不満足感を自分のせいにして、その辛さを頑張ってなんとか解消しようとしてしまうのです。

でもそれは絶対に実現しないことなのです。なぜなら、人間として生きている限り、欠乏感や不満足感はなくなりはしないからです。何を達成しても必ずまた出てきます。

自分の心をエゴの部分と愛の部分に分けてみて、その愛の部分では期待をするのかどうか探ってみると、どうやらその部分では期待をしていないということが分かります。

エゴは期待ばかりをしますが、愛は全く期待というものをしないのです。愛が出来るのはただただ与えるということだけだからです。エゴは、与えてもその結果を期待してしまいますが、愛は与えることそのものなので、結果については全く期待することはありません。

愛の部分を選択しつつ生活するように心がけることで、今まで無意識にしていた沢山の期待を手放していくことができます。期待しない人生がどれほど心の平安をもたらしてくれるか、是非実践して身をもって体感して欲しいと思います。

気づかない症候群 その2

昨日の続きです。

「見るな、危険!」、「考えるな、危険!」、「触るな、危険!」、「聞くな、危険!」などのエゴのレッテルが貼られることによって、我々は幸せになるための大切な事柄に気づかないようにさせられてしまうということをお話ししました。

こうした自分の力ではなかなか気づけなくさせられたものでも、セラピーなどを受けることによって、気づいていくことは可能です。

セラピーを受ける以外にも、適切な本を読んだり、セミナーなどに参加することでも気づきは得られるはずです。

私は「奇跡のコース」という本を繰り返し読んで行くうちに、自分が今まで気づかなかったエゴのレッテルにいくつか気づくことができました。

例えば、愛はすべては一つという想念ですが、その反対に自分は全体から分離した存在でいたいと強く願っているという事実に気づかされました。

しかも、自分とそれ以外の間の距離を保つために、人が罪深くあって欲しいと願っているということも分かりました。これはちょっとした衝撃でした。

罪を発明することによって、人を責めることができ、そのことで自分との隔たりを確保しようとしてきたということです。

え?と思われるかもしれませんが、どんな人でも、他人の中に罪を探したいという思いを持っているのです。でなければ、一体になってしまいます。一体になるということは人間ではいられなくなることを意味します。

気づいたからと言ってすぐにそれを克服したり、手放したりできるわけではありませんが、しかし気づかなければ現状を変える手立てがなくなってしまいます。

そのほかにも、一般的に親を憎んでいる人の心には本当は親を愛しているという部分があるのですが、これもしっかりと「見るな、危険!」のレッテルが貼られています。

自分は大変な被害に遭ったと思っている人に対して、自分は被害者ではない、という思いにはやはり厳重なレッテルが貼られています。

そして、私が「奇跡のコース」によって気づかされた最大のことは、本当の自分の姿は身体ではなく、スピリットだということです。今でもエゴのレッテルは貼りっぱなしになっていますが、それでもそのレッテルを跳ね除けて中身をみようとし続けるでしょうね。

そして、これもしっかりとレッテルが貼られているスピリットとしての記憶を、いつか取り戻したいと思っています。