痛みの正体 その2

昨日のつづきです。

物理的な痛みは絶対的なものではないし、受け入れるだけで緩和されるものだというお話しをしました。なぜ受け入れることができると、緩和する可能性があるのでしょうか。

それは痛みを起こす目的が、分かって欲しいという訴える気持ちの表れの一つの形であるからだと言えるからです。痛みを受け入れるとは、その何らかの訴えを受け入れるということに繋がるのです。

痛みを忌み嫌うものとして、敵対視してしまうのが普通ですが、反発も拒絶もせずにただ受け入れるという気持ちになれたとき、痛みを起こす元になっている訴える気持ちが受け止めてもらえたとして静かになるのだと思います。

常に身体のどこかが調子悪い、あちこちが痛いという自覚症状がある場合には、よくよくこのことを見つめてみる必要があるはずです。

例えば、行きたくないところに行かなければならなくて、それが比較的遠い場所だったりすると、普段よりも過度の疲労を感じたり、歩いていて足がひどく痛くなったりするものです。

でも同じ距離の場所でも自分がとても行きたくて仕方ないところだったりすると、疲れもしないし足も痛くなったりしないということがあります。

子供のときに、おもちゃ売り場にいるときは全く疲れないのに、親の買い物について歩くだけで身体がだるく感じたのを覚えています。

痛みはいやなものだという固定観念を一度リセットして、痛みと友達になってみようとすることです。痛みは幼い子供のようなものです。突然機嫌を悪くしてみたり、駄々っ子のように言うことをきかなかったりで、翻弄されてしまいがちですが、裁く代わりに愛を持って接してあげることです。

痛みを味方にするくらいの気持ちで、何かを訴えるその気持ちをただ受け止めてあげることです。本当にそれができると、きっと痛みは消えて行くはずです。痛みというものには、元々実体がないのですから。