病名と症状

初めてセッションを受けてみようとされる方から電話やメールをいただいて、「こんなことで悩んでいるのですが、そちらに伺ってもいいでしょうか?」というような質問をいただくことがあります。

「辛い記憶を催眠で消してもらうことはできますか?」という場合を除いて、どんな悩みでもセッションをお断りしたことはありません。

それは勿論何が何でもセッションを行いたいからということではなく、どんな悩みや症状であっても心の問題は元を正せばたった一つの事に行き着くと分かっているからです。

だから、ご本人が前向きに治したい気持ちさえあれば、癒しをしていくことができるのです。ですが、このことは一般には知られていないことなのでしょうね。

だからこそ、先にあげたような質問をされる方々がいらっしゃるわけです。他のセラピストの方のサイトを見ると、「こんな症状の方に効果があります」のように具体的に書いてあるものが多いですね。

実は私もそうした症状について、ホームページ上で詳細を載せた方がクライアントさんが迷わずにご予約できて親切だなと思い、そうした症例を作ったことがありました。

過去のセッションの記録から症状に関するデータを抽出して、まとめるところまでやったことがあったのです。

症状は多岐に渡っており、それはもう大変な情報量になってしまったのを覚えています。そして、ホームページ上に掲載しようかというところまで行って結局やめてしまいました。

その理由は、詳細になり過ぎたせいか、その情報を読んでいるだけで何となく自分が苦しくなってくるような感じがしたのです。

それとあきらめた理由がもう一つあります。それは、症状を読みやすくするためにグループ分けをしてみたりしたのですが、その作業に嫌気がさしてしまったのです。

何だか、症状に病名をつけたりグループ分けするようなことはお医者さんに任せておけばいいと思えたからです。

セッションにいらして下さったクライアントさんの抱えている問題は、お一人おひとりの個別のものですから、そこだけに集中すればいいのであって敢えて一般化する必要はないと思えました。

病名は便宜上人が仕分けし易いように作ったものに過ぎません。それは薬を処方するお医者さんのためのものです。

いかなる問題であろうとも、心の癒しができないというようなものは決してありません。ですから、どんなことでも、お一人で迷ってないで是非勇気を持ってセラピーにいらして欲しいと思います。

本について

若い頃から決して好んで本を読む方ではなかったし、今もそれは全く変わっていないのですが、かといって本が嫌いということではありません。

ただ、今手元に残っている本を見てみると、10冊程度しかないし、本当に出版業界に貢献できてないなあとつくづく思います。

巷では、最近若い人の活字離れが進んでいるとか、インターネットの普及によって情報を本よりも手軽にしかも無料で手に入れることができるようになったりとかで、本の売れ行きがかなり落ちていると聞いています。

勿論本が消えてしまうということはあり得ないのですが、この不景気とあいまって一層出版業界は辛い時代に入ったのかもしれませんね。

そんなこともあってか、この仕事をするようになって、何度となく様々な出版社さんから本を出してみませんかという電話やお知らせをいただいています。

彼らなりに新たな道を模索して、それこそネット上で調べて連絡をしてくれるのだろうなと思うのですが、いつも「はあ、今のところそのつもりはありません…」という感じでお断りしてきました。

それは勿論、お金もかかるわけですし、自分が伝えたいことはこうしてネット上に表現できるわけだし、それを読んでいただくだけで充分という気持ちがあったからです。

そしてもう一つ、本にするくらいまとまった内容のものを与えられた期限までに書き上げるということが自分には荷が重過ぎるのではないかという感覚もあります。

そうした気持ちは今も基本的には変わってないのですが、ほんの少しでもみなさんの役に立つ内容であるなら、できるだけ多くの人に読んでもらえたらいいなという気持ちも増えつつあります。

何となく、この一年近くずっと毎日ブログやミクシーの日記を書き続けてきたことも、もしかしたらそういったことに繋がることがあるのなら、無駄ではなかったかもしれないと思うようになりました。

いつのことになるのかは全く分からないのですが、自分の気持ちとチャンスが一つにまとまったときには本を出版することになるかもしれません。

その時には是非読んで下さいね。

無意識はある

目には見えないけれど、人の心があるというのは疑いようのない事実です。誰もが自分の心の存在を意識できるからですね。

そしてその心の大きな特徴として、自覚できる部分と自覚できない部分とがあります。自覚できない部分のことを潜在意識とか無意識という言葉で表すことは周知の事実です。

ところが、未だにこの潜在意識などというものは本当はないと思っている人が沢山います。この自分と意識できるものだけが自分の心なんだと信じているのです。

そういう人がなぜ、潜在意識や無意識というものを否定しようとするか、自分のうかがい知れないところに自分の本当の心があると思うことを怖れるからでしょうか?

一般論として無意識を認められる人であっても、あなたの無意識ではこんな風に思っているかもしれませんね、と言った指摘をすると、そんなわけありませんと否定する人は多いものです。

もしあなたが心のどこかで無意識の存在を認められないと思っているのでしたら、こう考えてみて下さい。

私達が夜睡眠中にみる夢というものがありますが、その夢を創作しているのは自分以外の誰でもないということは間違いないところですね。

ところが、自分で作っているというのにその夢の内容をコントロールできません。怖い夢だったり、いやな気持ちが残るような夢だったり、私達は好ましくないような夢を沢山見ます。

そんな見たくもない夢を自分が作っているのだということが、潜在意識や無意識の存在を証明するものだと思えないでしょうか?

眠っている間は自覚を作っている表面意識が休止状態になるために、心の奥で活動している無意識の部分が夢となって感じることができるのです。

もしかしたら、目覚めている間も潜在意識や無意識の状態を観察できたら、夢と同じようなものを自覚することができるのかもしれません。

イルカに感動

先日テレビを見ていたら、イルカがこんなことをして人命救助に大変な貢献をしているという番組をやっていました。

ご覧になった方もいらっしゃるのではないでしょうか?人命救助ができるといっても、いくら賢いイルカだからといっても高々知れたものだろうと思っていました。

しかし、内容を見て正直ちょっと感動して涙さえ滲みました。イルカはソナーといって音波を発信してその反射波を検地することで遠くにある物体でもその存在を確認できる能力を元々持っています。

これは釣りなどでつかう魚群探知機と同じ原理のものです。肉眼で見ることができない場所にある物体を認識するための装置です。

以前、ネス湖に生息していると噂されているネッシーの存在を船の上から調べようとして、そうした探知機で調べた人たちのことも知っています。

話はそれましたが、その番組で紹介していたのは、そうしたイルカの能力をフルに活用して、海底に沈んでいる目には見えない無数の地雷を撤去しようという作戦なのです。

そのために特別に訓練を受けたイルカを海底に調査に行かせるのです。そして、もしも地雷を発見したならイルカは船に戻ってきて地雷を見つけたとサインで知らせてくれます。

それを受けて、乗組員がイルカにブイのようなものをからだにつけて再度潜らせます。イルカは地雷のある場所まで泳いでいって、その場所に持っていったブイを置いて戻ってくるのです。

こんなことをイルカにやってもらおうと思い立った人もすばらしいですが、それを見事にやってのけるイルカって、何なのだろうと本当に感動しました。

しかもイルカは(私の主観も入っていますが)、そうした作業を嬉々としてやってくれているように思えたのです。私の独りよがりかもしれませんが、イルカの純粋な愛を感じました。

沢山の本音 その2

少し前に、元々人の心のなかには複数の互いに相容れないような本音というものがあるんだというお話しをしました。

そして、その複数の本音を無理やり一つに絞る事自体が無理なことなのだと知ることがとても大切なことだともいいました。

それは例えて言えば、複数の人が集まって一つの議題について意見を出し合うようなときのことを想像すれば明らかです。

勿論全員の意見や気持ちが一致して一つにまとまることができたらそれは一番いいでしょうが、現実には人それぞれ違う考え方を持っているのが普通です。

それでも会議の結果、ある一つの結論を出さねばならないとしたら、実際にはいくつかあるうちの一つの方法を選ぶことで最終結論を導き出すことになるはずです。

しかし、どんな方法であろうと、共通して必要なことは、まず充分にみんなで議論を重ね、つまり互いに納得行くまで各々が自分の言いたいことをみんなに伝えることですね。

聴いてもらいたい気持ちをそのままにせずに、どんな意見であってもとりあえず全員が全員の発言に耳を傾けるのです。

そして最後に、最終的な結論を導き出す方法を選択します。多数決で結論をだすのか、すべてを総合的に判断して結論を出す責任者に任せるのか、いろいろな方法があるはずです。

そうしたことと全く同じように、自分の心の中で複数の人がいて、それぞれの本音を持っているわけですから、とにかく全員の本心を聞くことが大切なわけです。

それをせずに、短絡的に一番発言力のある人の意見をそのまま自分の唯一の本音だとしてしまったりすると、あとで遺恨を残すことになってしまいます。

無理に自分の本心はこうだと決め付けるのではなく、なるべく多くの心のそれぞれの声を拾い上げて聴いてあげることです。

そういうことを繰り返して習慣にしていくことで、そうした聞き役の自分というものが成長するのです。そうなると、自分の心の中には沢山の本音があって、それは当然のことなんだなという気持ちが出来上がるのです。

どんな自分の気持ちや感情もすぐに責めたりしなくなっていきます。そうやって自責の念から少しずつ開放されていくことができるのです。

それと同時に、後々こうすればよかったというような後悔の気持ちを持つことも少なくなるはずです。是非、聞き役の自分を育てるように日々気をつけて生活してみてください。

自責の念

クライアントさんとお話ししていると、時々どうしてそれほどご自分を責めるのだろうと思うことがあります。伺っていると、どんな些細なことでも自責の気持ちに変えてしまっているように感じてしまうのです。

幼い頃から親や周りの大人から教わってきた、人はこうあるべきというルールに照らし合わせて自分を裁くのでしょうが、それが驚くほど多岐に渡っているのです。

そして決して容赦をしません。もしもその人が裁判員制度の裁判員として選ばれて、裁判で自分自身を裁くとしたら、世界一厳しい罰を与えるでしょうね。

自分のこういうところが最低なのだという話しをじっくり聞いたうえで、それと全く同じようなたとえ話を第三者から聞いたらどんなふうに感じるかを聞くと、ものすごくやさしい思いやりのあるコメントを言ってくれます。

そのくせ、自分のこととなると鬼のような厳しい態度で自分を責めるのです。その違いのことをいくら指摘しても一向に分かろうとはしてくれません。

こうなってくると、何が何でも自分の事を責め続けていなければならないような事情でもあるのではないかと感じてしまいます。

自分を責め続けるメリットとは一体どんなものなのでしょうか?一番分かりやすいのは、本当は誰かを思い切り責めている自分の本心を隠す効果があるというものです。

わき目も振らずに一心に自分を責めていると、誰かを憎んだり恨んだりしている見たくない自分の本心に気づかずにいることができるのです。

自分が悪いんだという気持ちは、外側へ向かう怒りを抑える力があるからです。つまり、自分のことをいつも責め続けている人は、誰かに対する激しい怒りや憎しみを隠し持っているということになります。

もしも自責の念が沢山あると自覚している場合には、その奥に隠された本当の怒りについて感じてみることがとても大きな癒しのきっかけになるはずです。

見捨てられる恐怖 その7

見捨てられる恐怖を味わいたくないがために、快不快だけで生きているような素の自分をないものにしようとします。

無邪気な自分、人の都合を考えずに自分の好き嫌いのままに生きようとする自分を危険因子とみなすわけです。

そんな自分の言う事を少しでも聞いてしまったら、必ず見捨てられて自分は暗黒の孤独の中に放り込まれて独りで死んでいくことになってしまいます。

そうならないように、その危険因子を心の中から抹殺しようとして、深くて暗いところへと押し込めてしまうのです。そこは光の当たらない真っ暗な海の底のような場所かもしれません。

沈めただけでは飽き足らず、手足を鎖でがんじがらめにして文字通り身動きができないようにしてしまうのです。

その上で、自分の人生の目標を見捨てられないでいられることに置いて、こうするべき、こうしなければならない、というルールの中で生きていくことになるのです。

しばらくして、その危険因子を海の底に沈めたことなど忘れてしまい、表面的に見捨てられないように生きる自分こそが本当の自分だと自分を騙して生きていくのです。

しかし、そんな生き方がいつまでも何の問題もないまま続くわけがありません。隠したものは必ず何らかの形で暴露されることになるのが人生のおきてです。

本能のままのような自分の願いや思いがいずれは表面に上がってきて、今の自分の人生の邪魔をするようになっていきます。

その時に初めて、自分の人生は何かがおかしいと気づくことになるのです。それが心を癒していくきっかけになるのかもしれません。

自分の心に湧き上がってくるどんな感情や思いにも、しっかりと目を向けて拾い上げて受け止めてあげることです。そうすることで、隠された自分の本心に気づくことができます。

そしてそれを認めることで、犠牲を強いてきたそれまでの人生から、自分や人への愛で生きる新しい人生へと変えていくことができるのです。

見捨てられる恐怖 その6

見捨てられる恐怖を強く内在していると、相手の期待に応えようとする人生になるという話しは以前にしました。

それは一般的に誰であれできることなら相手の期待に応えたいと思うものですが、そのレベルが尋常ではないのです。

どんなことがあっても、どんな犠牲を強いようとも、何とかして期待に応えなければと頑張るということです。

ところが、本人は自分が想定していることが間違いなく相手の期待に沿うものであるという勝手な思い込みに基づいているということに気づきません。

こうすることが相手の期待に沿うものだという判断は、実は数十年前の幼児の頃の親の気持ちに沿うのはこうだからという前提から導いているに過ぎません。

そんな昔の、しかも特定の人、母親や父親が相手の場合に作り上げたルールを基にしているのですから、大人の現在の自分の環境ではそのまま使えるとは限らないのです。

しかし本人はそんなことはおかまいなしに、きっとこれが相手の期待に応えられるやり方なんだとの独りよがりを貫こうとしてしまいます。

結局それは、相手にとっての本当に期待通りのものではないのですが、本人にはそれが分かりません。

ですから、相手に何でそんなことするの?と不満を言われたら、びっくりしてしまうのです。それだけでなく、大抵の場合には怒りがこみ上げてきます。

なぜなら、誠心誠意相手の意向に沿うようにとがんばった結果が不満を言われてしまうわけですから、これ以上どうすればいいのという気持ちになるからです。

そうやって自分一人で悪循環の中で困り果ててしまうのです。相手の本当の気持ちはその都度聞かなければ分からないし、聞いたとしてもその答えが相手の本心かどうかも分かりません。

結局、相手の期待通りに行動することは不可能であるということです。一番勘違いするのは、相手がありのままの姿を見せて欲しいと願っているということに気づかないことです。

いくら相手がそう言ってもその言葉を信じられないのです。子供の時に作ったデータベースにはそんなことは一言も書いてないからです。

自分は相手の期待に応える必要はないと分かることがとても大切です。その先にこそ、本当の意味で相手への献身という愛を与えるという幸せが待っているのです。