私達は、一分一秒ごとに誰かを裁いているといっても過言ではありません。つまり、それと気づかずに何度となく裁き続けて生活しているということです。
裁いている時というのは、大抵、相手の言動にイライラしたり、理不尽な思いやはっきりとした怒りを感じてみたり、恐れを感じたり、悪者と断定したり、拒絶をしたりと様々な反応をします。
裁くために我々は自分の知覚というものを歪ませているのです。それは生後まもなく開始して、少しずつ歪んだ知覚を自分に学習させて成長していくのです。
つまり、相手をそのままに見ようとするのではなく、常に裁きの目を通して見ようとするのです。それこそが歪んだ知覚であるわけです。
なぜそれほどまでにして、長い時間をかけて知覚を歪ませて裁こうとするのでしょうか?その目的、メリットとは一体何でしょうか?
相手を裁くということは、相手に罪があるという判断を下すということです。罪というと、言葉が重い印象を受けますが、要するに否定的に見るということです。
その目的は、自分を防衛する体制に入らせるためなのです。防衛状態に入ると、上記したような様々な反応を起こします。
攻撃的な怒りを感じてみたり、拒絶して遠ざかろうとしたりするわけです。どちらにしても、相手が悪くて自分は悪くないという状況を作り出すのです。
つまり、相手に罪があると判断することで自動的に自分には罪がない、あるいは自分の罪を忘れられるというメリットがあるのです。
ということは、自分の中にある罪悪感を隠すということが一つの大きな裁く目的であると言う事ができます。
私達は自分の心の奥に潜ませている大きな罪悪感を感じないように生きるために、裁くという行為を繰り返しているのです。
その目的は、その罪悪感を温存し続けることなのです。見ないようにしているものは、決してなくなることがありません。
そしてその最終的な目的とは、自分を個として周りから孤立させることなのです。そうやって、分離のこの世界が続いていくというわけです。