幼い頃には掃除をする意味というものが全く分かっていなかったことをはっきり覚えているのだけれど、不潔なものは駄目という感覚も強く持ってもいました。
潔癖症のたぐいの感覚というのは、怖れから来るわけですからいわゆる綺麗好きというのとは根本的に違うのだと思います。
きれい好きとは、単に整頓されたものが気持ちいいとか、美しいものが好きという感覚で、これは怖れというよりは愛に近い感じがします。
そして綺麗好きな人は、面倒だなと思うよりも綺麗にしておきたいという気持ちが勝っているので、いつも身の回りをきれいにしておくことができるのですね。
子供の頃はこうした綺麗好きというのはほとんどありませんでしたね。中学生になるまで、シャンプーなんて一週間に一回くらいしかしてなかったですし。
歯磨きも滅多にしないような子供でした。これは今考えるとちょっとおぞましいですが…。でもレコード(その昔はCDなんてなかった!)に指紋が付くのは絶対許せなくて。
いつも表面を綺麗に掃除してました。でもでも、部屋を掃除するということがどんな意味があるのかというのは、やっぱり分からなかったんです。
こんなのが、きっと自分の本当の姿なのかもしれません。ただ、大人になってくると、それまで顔も洗わずに朝起きたまんまで外出していたものが、必ず朝風呂に入るようになるんですね。
今の仕事をするようになって、セッションルームを毎日掃除するようになって、ようやく掃除をする気持ちよさというのを40代半ば過ぎてから知った次第なのです。
こういうことは放っておいても次第に変わっていくものなのかもしれません。子供の時に躾けを厳しくされなくても大丈夫なものなんですね。
小さいお子さんをお持ちの親御さんにお伝えしたいのですが、思ったように自分の子供がやってくれないといって、心配したり嘆く必要はないということです。
それよりも、潔癖などのほうをもっと心配してあげるべきかもしれません。そうした恐れからくるものは心の癒しが必要となることが多いからです。
しかしそうしたことですら、本当は心配することよりも子供の心を信頼することが大切です。心配は否定を意味するからです。
心配する代わりに、丸ごと子供を受け入れてあげることに心を使うことがとても大切だし、それこそが愛だと思うのです。 そしてそれは必ず子供の心に届くので、子供の心は癒されていくことになりますね。