どんなに記憶力のいい人でも、生まれた瞬間から今日までのすべての記憶を持っている人はいませんね。幼いころになればなるほど、記憶は曖昧になってしまうものです。
それとは逆に年齢を重ねていくと、今度は記憶力そのものが悪くなってくるのか、昨日のこともはっきり覚えてないというようなことも起きてきます。
ただどれほど記憶が曖昧になったとしても、この自分が自分なのだという自覚はずっと続いているというのは間違いないところです。
人生のどこかで自分が別の自分になってしまったということはないわけです。そして、今いるこの自分とは、生まれたときからの様々な経験の積み重ねの結果であると思っているのです。
だからこそ、例えば10年タバコを吸い続けてきたという記憶がある人は、禁煙するのがとても大変だということになるし、昨日初めてタバコを吸ったという記憶のある人は、タバコを今日吸わないでいるのは簡単なはずです。
ここでちょっと奇想天外なことを考えて見ます。寝ている間に自分が生まれてから今日までに経験したすべての記憶を作られたものとします。
目が覚めたときには確かに数十年前に生まれて、こういう両親に育てられて…という記憶があるのですが、それは昨晩寝ている間に作られた記憶だとします。
そうやって作られた記憶が本当の記憶と同じであれば、何も問題なくいつもと変わらぬ今日を生きることができるのですが、もしも違う記憶が仕込まれたとしたら今の自分は違う自分として生きることになるはずです。
他の誰かの記憶を入れ込まれたら、自分は別人として生きることになるわけですが、それを不思議とも何かが変だとも思わないのです。
なぜなら、その記憶でずっと今まで生きてきたと信じているわけですから。もしも、毎晩まったく違う人の記憶を入れ込まれるとしたら、毎日完全にその人になって今日を生きることができるわけです。
そうなると、この自分とは一体何者なんだろうかと考えてしまいます。この自分とはそうした記憶の結果出来上がる意識なのか、それともどんな経験をしても自分は変わらずにいるのでしょうか?
私はまったく違う自分のパーソナリティになってしまうと予想します。なぜなら、自分のアイデンティティというのは、経験から作られるものだからです。
自分とはその程度のものなのです。自分が目の前の人の記憶を寝ている間に入れ込まれたら、その人のパーソナリティになってしまうということです。
でも誰の記憶を入れ込まれても決して変わらぬ自分というものがあるとしたらどうでしょうか?それこそが本当の自分、だれにも共通にある真の自己だと思います。
その自分は何があっても変化することはありません。すべての人と分かち合っているその自分は永遠の中で生きているからです。その自分を思い出すことができたら、何事にも動じない圧倒的な平安の心でいられるのでしょうね。