人は生まれながらにして罪深いという教えがありますね。この考え方をアホ臭いと言って一笑に付して放っておくのは簡単ですが、なぜそんなことを言うのかを考えてみるのは意味があるかもしれません。
実はこの表現を少し訂正するだけでなかなか的を得た言葉にすることができます。それは、「人は生まれながらに罪深いと思い込んでいる」とすればいいのです。
つまり、客観的な事実であるという事と、単なる思い込みであるという事との違いだと思えばいいわけです。でもなんでそんな思い込みをしているのかを見てみる必要があります。
思い込みというのは事実ではないにしても、それを頑なに信じているわけですから本人にしたらそれは真実となってしまうのです。
ただその思い込みをはっきりと自覚してはいないために、「生まれながらに罪深い」と言われると反発したくなるということです。
コースによると、「神との分離」という妄想をしたときに、神を裏切っている自分というものに罪の意識を持つようになったとのこと。勿論その罪の意識も妄想の中でのことですが。
そうした罪深さが心の深いところに隠されているということです。この妄想による罪悪感は誰の心にもある人類に普遍的なものだからこそ、「人は生まれながらに罪深い」という表現ができたのでしょう。
これを取り去ることはできません。なぜなら、それは妄想だからです。思い込みですから、実体があるわけではないので、取り去れないのです。
思い込み、妄想の産物だということに気づくこと以外に、それから逃れる術はありません。気づくためにはその闇の部分に光を当ててあげることです。馬鹿馬鹿しいと放って置くだけでは、心の奥の罪悪感を手放すことはできません。
まじまじと見つめることをしたら、妄想などあとかたもなく消えてしまうでしょうね。それをさせないようにするために、「生まれながらに罪深い」という決め付けた言い方をするのです。
それこそがエゴの策略です。エゴはその闇の部分を暴かれて、そこが空っぽだったと知られることを最も怖れているのです。
なぜなら、ばれたらエゴは消滅してしまい「神との分離」という妄想が終ることになるのですから。そして、それこそが神と一体である真の自己を思い出す唯一の方法だとも言えるのです。