知覚するということは一般的には身体の感覚器官を使った五感によるものとされています。視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚とあります。
私たちはいつもこの五感からの情報を頼りにして生活しているわけです。しかし、実は知覚とはこれだけではありません。
自分自身を知覚することもできるからです。自分とはこういう存在だという自覚は自分を知覚した結果であるわけですね。
この場合は、自己イメージというものを結果として作り出すわけですが、それはやはり知覚することによって作り出すものであるのです。
私たちの誰もが抱く根本的な疑問である、自分とは一体何者なのかという問いに対して、明確な答えを出せる人はきっと一人もいないのでしょうけれど、それにも関わらず自分を知覚しているのです。
そして知覚の領域はまだあります。それは何かの意味を解釈するということです。もしも、そのことを本当に分かっているという状態であれば解釈は必要なくなります。
ということは、意味を解釈するということも知覚するということに入れることができます。実際、身体の五感を通して知覚した情報は、必ず何らかの解釈がなされます。
つまり元々知覚というのは解釈とは切っても切れない関係にあるということです。こうしたことのすべて、五感、自己イメージ、そして解釈の全部が知覚ということだと思えばいいのです。
ところで、この知覚に頼らなくなったらどうなると思いますか?それこそ生きてはいけないと誰もが想像するはずですね。
それは、五感からの情報に反応しなくなることだし、自己イメージを手放すことだし、解釈を全くしなくなることでもあるからです。
でもその状態とは、確実に愛に満たされた心になるように思えてなりません。それこそが、不確実な知覚から完全なる神の知識へ戻ることなのだと思うのです。