ごく一般的には、小学校の音楽の時間に初めて、楽譜というものを学びます。それは、五線譜という形式の譜面の上に、いろいろな音符が踊っているものですね。
音楽を専門にやっている人にとっては、とても馴染み深いものだと思います。単純な音階のものなら、それを目で追いながら心の中でそのメロディを口ずさむこともできるかもしれません。
専門家になれば、楽譜を見ただけで壮大な音楽が心の中で演奏されるのかもしれませんね。それは本当にすばらしいことだと思います。
すばらしい音楽という芸術は、その音符の配列によって表現されているわけです。しかし、その音楽も五線譜という譜面が土台として必要なのは言うまでも在りません。
譜面がなければ、音符を表現できないからです。私たちは当然のように、楽譜上の音符ばかりを目で追うのですが、同時に譜面を見ていることに気づきません。
それは当たり前過ぎるからです。人は、あまりにも当たり前のことには気が付き難いという性質を元々持っているのです。
かつてどこかで、譜面の上に全休符だけが延々と置かれた楽譜を見たことがあります。つまり、ずっと音の無い音楽というわけです。
こうなってくると、譜面そのものがかなりの割合で露出してきます。全休符が延々と続く楽譜と譜面そのものの違いを聞き分けることなどできません。
それこそがすべての音や音楽を支えている静寂というものです。私たちはどうやら、自分のことを五線譜上で活躍する音符だと思い込んでいるのです。
しかし、本当の自分はさまざまな音符が活躍する土台となる譜面であるということに気づくことです。つまり、真の自己は静寂そのものであって、その中であらゆる音が生まれるのだと言うことです。