昨日の続きというか、もう少しだけ掘り下げてみたいと思ったことがありましたので、書いて見ることにします。
私たちは、私の○○、というものを無数に持っています。私の指、私の腕、私の胴体、私の顔、これらはすべて私の身体についてのものです。
また、私の感情、私の想い、私の考え、私の信念、私の気持ち、これらはみな私の心についてのことだとも言えます。
それ以外にも、私の性別、私の国、私の家族、私のお金、私の家、私のクルマ、私の学校、私の部屋など、実際に私の所有物であるものもあるし、そうでないものも含んでいます。
こうした、「私の○○」は決して私自身ではないので、それらを全部私から除外して残るものこそが、私で在るものと言えるかもしれません。
しかし、そうやって除外していって一体何が残るでしょうか?私自身の感覚では、何も残るものがないというのが正直なところです。
そうです、私で在るものとは、何もないのです。この世界のどこにも、私で在るものを見つけ出すことができないということに気づきます。
もしかしたら、このことはとても不安に感じてしまう場合があるかもしれません。でも、安心して下さい。どこにも見出せないとしても、確かに「私は在る」は残るのです。
これは誰にとっても必ず該当しないということはありません。したがって、「私は在る」こそが、本当の私なのかもしれません。
これはちょうど、あなたが寝ているときに見ている夢の中にあなた自身を見つけることができないのと同じことなのです。
これが自分だという存在が夢の中で活躍することは勿論できますが、その自分は決して夢を見ているあなた自身ではありません。
夢の中の登場人物としての自分がそこにいるだけですね。この世界のどこにも私で在るものが見つけられないのは、この現実という夢を見ているのが本当の私だからかもしれません。
そうだとすると、この世界のすべては本当の私が想像の中で創造したものだということができ、本当の私はあらゆるものの中に在る(偏在している)とも言えるのです。