私たちの心は常に何かを求めています。それは、もっとマシな自分になろうとか、何かを成し遂げたいとか、もっといい暮らし、もっと素敵な人が欲しい、もっと崇高な人物になる等々。
最も身近なところでは、子供のころにもっといい成績をとること、かけっこで一等賞になること、親や先生に褒められることなどがあったかもしれません。
何かを達成するということは、この世界で生きていくうえでとても大切なことだという教育を受けてきたことは間違いありません。
そして、到底自分には手の届かないところとは言え、究極の高みのものとして悟りとか覚醒などと言われる境地というものがあることは誰もが知っています。
私はそんなものを求めたりしない、それよりもこの人生でより豊かに、より楽しく充実した毎日をおくれればいいと思っている人も多いかもしれません。
しかし、真の幸福とはこの世的な価値観の中にはないというのも事実です。この世界での幸福とは、快楽を継続させて、苦悩から離れていることを指すからです。
快楽は必ず苦悩を作り出すため、この努力は永遠に続く輪廻の中に巻き込まれていくだけです。だとしたら、覚醒を目指すしか本当の至福には至れないということです。
ところが、残念なことに覚醒に至る道は、他のあらゆる達成と根本的に異なるものだということは、あまり知られていません。
金メダルを獲得することも、エベレストの頂上に到達することも、他のすべての達成にはそれを達成した個人がそこにいます。
だからこそ、その達成を諸手を挙げて喜ぶことができるのです。それがいわゆる達成感ですね。ところが、覚醒だけは全く違うのです。
覚醒とはその覚醒を目指した個人がいなくなることを意味しているからです。したがって、本当に覚醒したときには、その覚醒を喜ぶ本人が不在であるということです。
つまり、覚醒を達成できる人はいないということになるのです。何とも腑に落ちない話しのように感じるかもしれませんが、これが事実です。
それはちょうど、夢の中に出てくる自分が、努力によってその夢から醒めることができないのと全く同じことなのです。
夢から目覚めることができるのは、その眠りの中でその夢を創造していた自分なのですから。これこそが、夢から醒める、つまり覚醒を意味するのです。
まずは、何も達成するべきことはないということを明確にしましょう。努力すればするほど、覚醒から遠のくはずです。なぜなら、その努力は何らかの達成に向かっているからです。
達成のない人生、それは完全なる明け渡しを意味します。私は身体ではない、個人としての私は不在であるとの深い信頼こそが、覚醒そのものなのではないかと思うのです。