どんなときに親は子供を褒めればいいのか?

私たちは誰でも否定されるよりも肯定されたら嬉しいのです。けなされたら悲しいですし、褒められたらいい気持ちになれるのです。

だからこそ、どうせなら褒めて差し上げればいいのですね。親が子育て中に、子供を褒めてあげることは大切なことです。

けれども、どういうときに褒めてあげればいいのかを勘違いしている親が多いのも事実です。なんでも褒めればいいというものでもありません。

たとえば、テストで100点取ったら褒める、徒競走で一等になったら褒める、こういうのは当たり前のことかもしれません。

けれども、同時に50点取ったら叱る、ビリになったら叱咤激励するというのがくっついてくるのでしたら、褒めることは問題かもしれません。

なぜなら、子供は親にとって都合のいい自分でなければならないと思い込むようになってしまうからです。

たいていの場合、親は自分が嬉しい気持ちの時に褒めて、自分が否定的な気持ちなったときには、褒めないのです。

本当に必要な褒め方というのは、自分の気持ちよりも子供の気持ちを優先することです。つまり、子供が嬉しがっているときに褒めるのです。

○○でこんなに喜ぶことのできるあなたは素晴らしいね!と言う具合に褒めるのです。そうやって褒められることが条件づけられると、子供は自分が楽しい思いをしたり、喜んだりすることに価値があるのだと自然と理解するようになるのです。

人生を楽しむことこそが、素晴らしいこと、喜ばしいこと、褒められて当然のことだということを実感することができたら、子供のその後の人生は明るいものにおのずとなっていくはずです。

惨めさの原点

昨日のブログでは、自分の「惨めさ」、自分は惨めだという思いから逃げようとして、自己防衛をするというお話しをしました。

そうした自己防衛によって、惨めさが作り出す否定的な感情を見ないようにするわけです。その惨めさの大元とは一体何なのでしょうか?

それは、幼い頃に自ら作り出した、「自分はいらない子なんだ」という思い込みです。この自分の存在否定ほど、大きな惨めさはありません。

これが、その後の人生において自分の存在価値に気づけなくなってしまう理由の大きな一つであるわけです。

しかも、このどうしようもない惨めな思い込みは、本人の記憶がないような相当に幼い頃にやってしまうと見て間違いありません。

そして、その思い込みを一度作りこんでしまうと、今度は「やっぱり自分はいらない子なんだ」と思わざるを得ないような事態がさまざまやってくることになってしまうのです。

それは、その子の心の中に溜め込んでしまった惨めだと言う思いのエネルギーが、それが本当のことなのだと証明するかのように、次から次へと惨め体験を引き寄せるのです。

そうやって、惨めなのは本当なのだという強い思い込みと、それに対抗する強烈な自己防衛システムが構築されることになるのです。

催眠療法などで、自分の幼い頃の惨めさを再体験することができますが、それは初めに「自分はいらない子だ」という思い込みをした、その後のことを再体験している場合がほとんどです。

「自分はいらない子だ」という惨めさの原点を探し、それはただの思い込みに過ぎなかったという視点と、その奥に隠された感情を思い切り感じきることで、人生の質が変化してくるはずです。

「惨めさ」が作り出す感情を味わう

私たちが最も見たくない自分の姿とは、「惨め」な自分なのです。だから、「惨めさ」とは癒しをする上で忘れてはならないキーワードでもあるのです。

辞書で、「みじめ」の語源を調べてみると、「見じ」と「目」からなる語であることが分かります。「見じ」の「じ」は打ち消し推量の助動詞で、「見たくない」の意味だそうです。

たとえば、「負けじと頑張る」という際の「じ」も、同じ打消し推量の助動詞です。一方、「目」は「痛い目に合う」や「ひどい目に合う」の「目」と同じく、経験やある事態に出合うことを表すのです。

ということで、「みじめ」は見たくないような事態にあることから、かわいそうで見るに忍びないこと、情けないさま、あわれなさまを意味するようになったのだそうです。

だからこそ、「自己防衛システム」は自分の「惨めさ」を自分自身に対しても、他人に対してもできるだけ隠そうとするのです。

「惨めさ」そのものは、感情ではなくて思考そのものです。ある事態を知覚してそれを思考が都合よく「惨めさ」として認識するのです。

したがって、本当に「惨め」な自分がいるわけではありません。「惨め」だという想い(思考)があるということなのです。

そして、その「惨めさ」は恐怖や自己嫌悪などの否定的感情を生み出すのです。自分の心を癒すためには、必ず幼い頃の自分の「惨めさ」と向き合わねばなりません。

そして、それが作り出した後に心の奥底にしまいこんでしまった、否定的な感情を丸ごと無防備に感じきることです。

そうすると、現在の自分の人生で「惨めさ」に遭遇することが格段に少なくなっていくはずです。ぜひ、試してみてください。

「嫌い」と「好きではない」の違い

私たちはみな自分固有の好みというものを持っていますね。食べ物にしても、色や服や、他人の外見などについても同じです。

「好き」とか「好み」とか、「好ましい」などという表現を使いますが、それは要するに自分にとってすんなりと受け入れられるものだということです。

けれども、その反対に「好きではない」もの、「好みではない」、「好ましくない」と感じる対象もあります。その感覚がより積極的になったときに、「嫌い」と表現するかもしれません。

日常的には「好きではない」ということと、「嫌い」ということを混同して使っているかもしれませんが、よく見つめてみるとそこには大きな違いがあることが分かります。

「嫌い」には明確な拒絶があるということです。「いやだ」という感覚が含まれているのですが、一方「好きではない」には拒絶はありません。

私たちにとって、「嫌い」に含まれる拒絶こそが苦しみの原因となるのです。同じように扱われる「好きではない」には、そういう意味で苦しみがありません。

何かが、自分にとって「好ましい」ものであろうと、「好ましくない」ものであろうと、本当にどちらでも構わないのです。本質的には何の違いもありません。

それは持って生まれた個性によって作られる反応でしかないからです。しかし、「嫌い」となると話しはまったく異なってきます。

拒絶感は、決して生まれつきの個性からやってくることはないのです。それは、生後なんらかの体験を通して作り出されるものなのです。

生まれたときから、トマトが好みではない人にとって、なんらかの自己犠牲を強いられない限り、それは単に「好みではない」というままで居続けられるのです。

けれども、もしもそこに例えば無理やり食べさせられたとか、食べない自分に自己嫌悪を感じたといった自己犠牲がからんできてしまうと、トマトを「嫌い」になってしまうのです。

この二つの違いの大きな隔たりに気づくことです。自分の中に、生後作り出してしまった拒絶があるときにのみ、人は苦悩を抱えることになるのです。

なぜなら、「嫌い」なものはいくら拒絶しても、思い通りには決してならないのが人生だからです。それが苦しみのもとなのです。

もしも、あなたの心の中にある拒絶に気づいたなら、それをとことん見つめてみることです。そうすることによって、単なる「好きではない」に戻せるかもしれません。

対処よりも寄り添うこと

この世界の一般的な見方として、成熟した大人になれば、それだけ問題解決の能力が高くなるというように考えられています。

確かに学校の試験を解くことにしても、小学生よりも大学生の方がより高度な問題を解くことができるわけです。

新米の一年生社会人よりも、熟練した経験を持つシニアレベルのほうが、より的確な解決能力を持っているのは間違いありません。

けれども、もう一つの見方をすると、問題を解決するということを繰り返すことで、「自己防衛システム」が強化されるということに気づくことができます。

防衛システムは、問題を見出しては解決する、あるいは乗り越えるということを継続的に行うことで、それ自体の存続を目論んでいるのです。

だからこそ心の余裕をなくした心配性の親ほど、焦って問題を解決しようとばかりしてしまうのです。

例えば、いじめに苦しんでいる子供が、その辛い思いを母親に打ち明けたときに、親がびっくりして先生に電話をかけたり、いじめの中心となる子供の家に抗議をしに行ってしまったりするのです。

子供は、いじめを解決して欲しかったわけではないかもしれないのにです。子供は、ただその悲しみを一緒にいて受け止めて欲しかっただけなのです。

そうした親の言動は、傷ついた子供の心をさらに痛めてしまう結果になるのです。私たちは、とにかく「自己防衛システム」が促すままに、問題を解決しようと躍起になってしまうのです。

そのことにしっかり気づいたうえで、対処よりもただ寄り添っていることの大切さを知ることが必要ですね。

何か問題が見つかったり、困った事態が起きたとしても、慌ててそれを解決しようとするよりも、ただそれを真正面から見つめることなのです。

それだけで、問題だと思っていたことが次第に取るに足りないことに思えてきたり、心の痛みが緩和されてしまうという経験をすることができるかもしれません。

思考のないところに不完全さはない

昨日のブログでも書いたのですが、自分が全体性としての純粋な意識であるときには、この宇宙のあらゆることが完璧だとただ分かるのです。

完璧であると積極的に言う必要も本当はないのです。もう少し近い表現をすれば、不完全であるということはない、になります。

不完全さを見るのは、恐怖であり、思考なのです。私たちが通常考えている完璧さとは、恐怖を感じずに済むということなのです。

けれども、それは暗に恐怖を感じる可能性があるということを示しているということに気づく必要がありますね。

都合の悪いことが一つも起こらないということが、私たちのイメージしている完璧さなのですが、本当の完璧さを見るためには、まったく違う視点が必要です。

それは、無防備さである愛の視点です。それはただあるがままがそこに在る、起こることがただそこで起こっているというものです。

思考の外は、そういう意味では常に完璧でしかあり得ないということですね。逆に、「私」という思考の中では、決して真の完璧さを見ることができないのはそういう理由なのです。

思考のないところには、何の恐れも存在することはできません。そのことを愛と呼ぶだけです。それは不完全であるはずがありませんね。

サウナはいいよな~(いいよなおじさん風に)

午後一くらいの空いた時間にスポーツクラブに行くと、結構な長い時間サウナを独り占めできることもあります。

いつもは、誰か顔見知りがいたりして互いに挨拶などするのですが、誰もいないときにはじっくりと全体性へと意識が行くのを楽しむことができます。

意識が遥か彼方へと向かうのに、なぜ高温のサウナがこれほどまでに適しているのかは分かりませんが…。

身体は暑いと感じているはずなのに、不思議と自動的にリラックスしていくのを感じているだけで、自分の存在が希薄になります。

自分がいると、この世界はまったくどうしようもないことが山積していると感じるのですが、意識が彼方へ行ってしまうと、すべてが完璧だと分かります。

それまで外側の世界だと思っていたものが、実は全体性としての自己意識だったということの気づきがやってくるのです。

これはナニモノにも代えがたい、ある意味での完璧な救いのようなものだとも感じます。解決すべき問題も、改善すべき自分もなくなるのですから。

「自己防衛システム」が不安を安心に変えようと躍起になるのに対して、この無限の自己意識への注意は、果てしない平安への気づきなのですね。

というわけで、明日もサウナに行こうっと!!

「自己防衛システム」の本性 その5

「自己防衛システム」の目的は、見捨てられてしまう不安を、何とかしてそうならないようにして安心を得ようとすることです。

つまり、幸せになることが目的ではないのです。それに気づかずにいながら、大人になると自分を少しでも幸せにしようと考えるようになるのです。

ところが、幸せになるために使う手段として、無自覚のうちに過去に作った「自己防衛システム」が利用されてしまうわけです。

だから、幸せになれるはずもありません。その手段は、自分は生きていけるという安心を得るためだったのですから、見当違いも甚だしいのです。

そうして、結局幸せになろうと努力すればするほど、心の内部で活動する「自己防衛システム」にコントロールされて、自己犠牲を強いる結果となってしまうのです。

どれほど頑張っても、何をやっても、一過性の安心は得られるものの、そんなものは明日になったら消えてなくなってしまうのです。

どう努力をしても、どうしても心から喜びを享受する人生になって行かないのには、こうした明確な原因があったということです。

安心を得ようとする自分の防衛システムの本性を見抜くことです。そして、安心の代わりに、心からの平安に近づくにはという視点を持つことです。

よりよい自分になろうとしたり、自己啓発セミナーにはまってみたり、社会で成功して認められようとしたりするのは、すべてが「自己防衛システム」が関わっています。

さらに付け加えるならば、心の癒しを進めていこうとするのも、そして覚醒への道を究めようとすることさせ、実は「自己防衛システム」の中でのことなのです。

それでも、癒しの最初の一歩二歩は、その防衛システムの力を借りて進めていかざるを得ないのも事実なのです。

大切なことは、どの時点でそのことにしっかり気づくことができるのか、そして本当の癒しとは今この瞬間の自分を変えようとすることにあるのではなく、真実に気づくことなのです。

「自己防衛システム」の本性 その4

「自己防衛システム」において、忘れてはならない策略として、自閉というものがあります。つまり、心のシャッターを閉めて不都合なものを遮断しようとするものです。

自閉は、意識的にやることもありますが、その多くはまったく無意識的に行ってしまいますので、自分ではまったく自覚することができません。

私たちの瞳は、光を感知して網膜に入ってくる光を瞳孔によって調整する機能を備えています。そしていつも適正な光の量にしていますね。

それと同じように、都合のいい情報は最大限シャッターを開いて受け入れようとするし、逆に都合の悪いものが入ってこないようにシャッターを閉めるのです。

そうやって、心が傷つかないようにと守っているのです。問題は、シャッターを閉じ続けなければならない状態になったときに、その後開くことができなくなってしまうことがあるということです。

そうなると、心は常に自閉している状態となってしまうので、たとえば相手の気持ちなどが伝わってこないといったことが起きてしまうのです。

その後心がやることは決まっています。それは、分からないままだと非常に思考は不安になりますので、分かったつもりにするということです。

つまり、自分にとって都合のいいように、相手の気持ちを身勝手に決め付けてしまうということをやるのです。

これが常態化してしまうと、もうその人は大人になっても正常な人間関係を作ることが難しくなってしまいます。

そして、困ったことにご本人はその理由がまったく分からないのです。思い当たることがないために、結果として相手のせいにしてしまうことにもなるのです。

適度な自閉は誰でもそれなりにやっているものです。例えば、「KY」だと言われてる場合は、自閉を疑ったほうがいいかもしれません。

自分がやっている「自閉」を見抜くためには、いつも自分に正直に向き合っていることが必要だと思いますね。

「自己防衛システム」の本性 その3

今日は、「自己防衛システム」の見え透いた手口の代表的なものを一つご紹介してみたいと思います。見え透いてしまうのは、幼いときに作ったからですね。

たとえば、「あきらめた」と人にも自分自身に対しても言うことがありますが、あれは少しもあきらめてなどいないということが見え見えです。

あきらめたとは言え、まだ少し未練が残っているなどと平気で言ったりするのですから、それはもうお笑いの世界でしかありません。

あきらめきれないでいると、自分の心が辛くなるから、「あきらめた」ことにするのです。自分を騙すことで、苦しさから逃れようとする自己防衛ですね。

本当にあきらめることができたなら、それは防衛システムから外れたことを意味するのですから、その場合にはあきらめたという言葉は出ないはずなのです。

望むもの(事)が手に入らない苦しみから、目を背けずに真正面から見てしまえば、その苦しみは消えてしまいます。

したがって、あきらめるなどという心的行為など、初めから不要なのです。防衛システムは、そのことを本人には決して悟られまいとして、不満な気持ちと一つになることをさせないのです。

私たちは、まんまとその手口に乗せられて、いつまでも執着という中途半端な心の状態にとどまるように仕向けられるのです。

何かをあきらめるということを止めることです。あきらめようとするのではなく、満たされない思いから逃げずにただいることです。

心理的に何もしないでいられたら、防衛システムはどうしようもなくなって、その勢いは減衰していってしまうことでしょうね。