昨日のブログの中で、「覚醒するということは、まさに人物としての体験の中で、その本質自身が本質としての自己に目覚めることを意味します。」と書きました。
ということは、つまり個人としての自分が自分なのだと自覚している自分、これをエゴと呼びますが、それが覚醒するということはないということです。
それにもかかわらず、私たち、あるいは私たちのエゴは、自分の本質を探究して、いずれは覚醒したいと願っています。エゴが何なのかということにはあまり興味を示さずに…。
これは本当にめでたい?見当違いなことですね。私たちの誰も覚醒することはできません。覚醒するのは、本質としての自己そのものなのですから。
このことは、寝よう寝ようと意識すればするほど、寝付けなくなってしまうあの現象と似ています。覚醒とは私たちエゴがコントロールできるものではありません。
私たちは自分の力で寝入ることができないことを知っているからこそ、自然に寝入るがままに任せようとするのです。
それと同じように、自分の力を放棄して、委ねることによってエゴという邪魔者の存在が小さくなって、その奥から本質が顔を出すことになるということです。
いつ寝入ることができるのか、誰にも予測できないのと同じで、いつ覚醒がやってくるのかは神のみぞ知るということですね。
人生をコントロールしたいという願望も、コントロールできるという信念もどちらも脇において、観念することにしませんか?神さえもコントロールしてはいないのですから。