真に知るということ、あるいは真に所有するということ、それはそれ自身であるということと同じ意味を持ちます。
それは、自分以外の何物も本当には知ることができないからです。勿論、知ったつもりになることはできますが、それはただ思考がそう解釈しているに過ぎません。
あるいは、自分以外の何物も本当には所有することなどできません。私たちが所有しているつもりになっているのは、ただの約束ごとに過ぎません。
みんなが、揃ってあの家はあなたのものだと言ってくれるからこそ、それはあなたの所有物と言う取り決めになっているだけです。
あなたが本当に所有できるのは、あなたそのものしかありません。私たちの知覚は自分以外の何かを対象として機能するのですから、知覚そのものが真実ではないことは明らかです。
真に見ることができるもの、真に聞くことができるもの、真に触れることができるもの、それは自分自身しかありえません。
私たちが最も頼りにしている知覚、それはその奥に純粋な意識としての気づきがあるのです。けれども、あまりにも知覚に力を与えてしまったために、そのことに気づけなくなってしまっています。
知覚のずっとずっと奥にある気づき、そこに意識を向けていれば、あなたが知覚しているすべてのものが、本当はあなた自身なのだと気づくことができるはずです。
肉体の目で見るのではなく、肉体の耳で聴くのでもなく、ただ一人称の自己に気づいていることこそ、真に知るということなのです。