普通であること

私たちの中にあると想定されているエゴというのは、いつも理想を掲げて持っているのです。その背後にあるものとは、断定的とも言える自己否定感なのです。

自分にダメ出しをしているからこそ、その真逆である素晴らしい存在に憧れもするのです。自分がそうなりたいと思うだけではなくて、そうした理想的な人物を無意識に探しもするのです。

そうして、この人はという人が見つかると、その人のことを勝手に理想的な素晴らしい人であると決めつけてしまうのです。そして、その人を崇め奉るようになるわけです。

けれども、その人のプライベートなどを知ることになって、おいおい、話しが違うじゃないか、その人はこんなことをするはずがないのに、というようにして裏切られた感にやられてしまうのです。

なんだ、ごく普通のくだらない奴じゃないかと思えて、尊敬の眼差しが一気に消えてしまうのです。それはきっと物凄く残念な体験になるのでしょうね。

ごく普通のセラピストである私ごときでも、クライアントさんによっては自分とは違う世界に棲んでいると勘違いしてしまうことがあるくらいです。

それを感じると、わざわざ時間を割いてでも自分はごく普通のおっさんですよ、と説明することにしているのですが、そうした内容はどうも耳に入らないようなのです。

私でもそうした経験があるくらいですから、この世界で活躍されている有名な方々のことを、勝手に高貴な人に違いないと勘違いしてしまうのも、当然かもしれません。

21歳のときに光明を得た osho であっても、大人になった彼はシャワーを浴びるときに床をビショビショにして、付いている女性に叱られてみたり、頭からすっぽり毛布に包まってしか眠れないなどということがあったのです。

どんな人も、近くで見ればごく普通の人たちなのです。その普通さがとても大事なのです。人格が高貴で、などという人は逆に危ない人です。禁欲的な人もダメです。

悪魔から天使までまんべんなく持っている自分、その自分を全的に生きているその普通さこそが本当に素晴らしいのだと気づくことですね。

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