真の自由とは?

この世界には何の問題もありません。つまり、完全完璧であるということです。ただし、それは真実を見抜く洞察力を持って見ればということです。

残念ながら私たちの見方では、常にマインドがしゃしゃり出てきてストレートに世界を見ることができないために、問題だらけのように錯覚させられてしまうのです。

つまり、問題があるとしたらこの世界自体にあるのではなく、私たち自身のマインドにこそあるということです。マインドこそが、唯一の問題児なのです。

それこそが、私たちを一人の人物だと思わせ続ける張本人なのです。人物としてのあなたがいなければ、この世界は真に完璧だと悟ることになるはずです。

いやいや、自分は本当に自由気ままに気持ちよく生きている、だから自分には問題など何もないと思っている人だっているかもしれませんね。

けれども、あなたが感じている自由とは所詮まやかしの上のものでしかありません。なぜなら、本当のあなたとは今あなたがそれと信じているようなものではないからです。

それなのに、あなたは小さな肉体の中から出ることすらできずにいるのですから。それを牢獄と呼ぶ人もいるくらいです。あなたを狭い牢獄の中に押し込めているものこそエゴなのです。

真の自由とは、人物としてのあなたから自由になることです。エゴとは、他者との関係性において現れる思考群だと思えばいいのです。

あなたが真に独りになって、内側深くに没入していけば、そこにエゴが入り込む隙はありません。他者がいなければ、あなたのエゴは餌を失うのです。そこには真の自由が広がっています。

そのエゴ抜きの体験をぜひともすることです。それはヒマラヤに行かずとも、自宅にいながらにして体験することができます。それが瞑想です。

瞑想を繰り返していくうちに、少しずつですがエゴが弱ってくるのを感じることができるようになります。その平安を味わってしまったら、それを忘れるのは困難なことになるはずです。

あなたは生の有機的な一部

この生というものは、時々刻々と生まれ変わって常に新鮮なものであるのですが、この世でたった一つだけその生の瞬間に生きることができないものがあるのです。

それが私たちのマインドなのです。マインド(思考)は、いつもいつも過去の中にいるのです。過去の中にいるからこそ、私たちは人物として存在していると感じるのです。

人物としての自分とは、過去の体験の蓄積によってでっち上げられたものだからです。だからこそ、この生の瞬間をとらえることが難しくなってしまっているのです。

片や生の方は今この瞬間の連続であり、そこには時間というものが存在しないのですが、もう一方のマインドは過去から現在までの時間の中に居場所があるのです。

だからこそ、私たちは生をそのままの姿として見ることができないでいるのです。あなたという人物の目には、その歴史によって作られた様々な色眼鏡がかけられています。

その色眼鏡を通してしか、この生を見ることができなくなっているのです。そして、その色眼鏡は、とても個人的なものであるために、各人が見ている生はそれぞれ違うものなのです。

本当の生はたった一つしかないのですが、誰もが独自の生の中で暮らしているのです。あなたの体験と反応による記憶を一時的にも見ないでいられるならば、あなたは自分が人物ではないと気づくはずです。

その時にこそ、真実の生により近づくことができるのです。そして、その感覚によれば、自分そのものがその生の一部であるということに行き当たるのです。

そのときに、本当の自分から孤独というものが消失してしまうのです。あなたは、この広大無辺な生の有機的な一部であるということです。

それがどれほど満ち足りたものであるか、瞑想によってそれを一瞬でも見ることができたなら、必ず何か大きな変化が向うからやってくることになるはずです。

真実は分かち合えない

科学が日々進歩し続けるのは、その理論や法則を誰もが共有できるからですね。ニュートンが万有引力の法則を発見したおかげで、人類は月へ行くこともできたわけです。

それは彼一人の発見を、他の人々によっても検証されて、誰もがその法則を利用できるようになったおかげです。アインシュタインが発見した相対性理論だって、力量のある人ならそれを学ぶことが可能です。

だからこそ、科学は素晴らしいし、そのおかげで益々発展していくことができるのです。ところで、2600年も前にブッダが光明を得たことは有名ですが、一体どれだけの人がその恩恵にあずかることができたでしょうか?

残念なことに、真実というものは科学のように共有することができないのです。だから、ほとんどの人にとって、ブッダの成果を受け取ることができないままでいるのです。

真の宗教とはそのように全く個人的なものだということが分かりますね。今の宗教において、私たちが共有できるものと言えば、聖書やコーラン、ウパニシャッドのような教典の内容でしかないのです。

それは決して真実ではありません。科学が共有できる理由は、それが思考をベースにしているからです。我々は思考を使うことで、言葉や客観的な実験を理解し合えるのです。

一方、真実は思考を遥かに超えているのです。だから、科学のようには分かち合うことが不可能なのです。言葉で伝えられることは、それがどれほど素晴らしい内容であっても思考の領域に留まるのです。

本当の宗教とは、私たち一人ひとりの内奥深くにあるものであって、決して言葉や文章で表現できるものではありません。だから真の導師が弟子に伝えるのも、言葉ではあり得ないのです。

それは、如何に真実を見えなくしている個人個人のバリアを剥ぎ取るかということなのです。そのバリアこそが、昨日のブログで書いた、私たちがこれまで培ってきてしまったあらゆる知識や常識なのです。

知識は思考に活力を与え、その思考が更なる知識を獲得するといった悪循環を生むのです。あなたがマインド(思考)優位の毎日を送っているなら、それだけバリアは厚くなり、真実から遠ざかることになるはずです。

それを非宗教的な人と呼ぶのです。もしもあなたが教義や教典にしがみついて、それを信仰するなら非宗教的な人になってしまうでしょうね。

真実はあなたの外側にはあるのではなく、最も個人的な領域のまたその奥に隠されているのです。隠しているのは、他でもない私たち自身なのですね。

ただ在る自分となる

私たちには、人生の中で様々な教師との出会いがありますね。その沢山の教師たちから、多くのことを学んでいくわけですが、人生最初の教師は一般的には両親であるはずです。

親という教師から与えられた教育の影響は絶大なものです。なぜなら、何も知らない無垢な状態のところに新しいルールなり考え方を教わるわけですから。

真っ白なキャンパスに、親の色付けが進んでいくのです。そこで、自分はどのように生きて行けばいいのかという基本中の基本を描き記されるのです。

その後成長するにしたがって、学校の先生という教師に学業を学び、周囲の友達から人と共に協調しながら生きて行く方法なども会得するのです。

そして、社会という大きな教師からも学ばされていくのです。これらの教育のすべてから、どのようにして立派な社会の一員となっていくのかということを教え込まれることとなるのです。

このようにして、私たちは本当に幼い頃から継続して教えられ、知識を増やしていくということを経験するのです。捨てることよりも、手に入れることが上手になるのも無理はありません。

このような学びは勿論必要なことです。それなしには、誰もが動物のような人生を送ることになってしまうからですね。ところが、誰からのどんな教育も、その根っこにはエゴの策略が潜んでいるのです。

エゴの隠された教育の目的とは、私たちをして闘い続けさせようと目論んでいるのです。闘えば、その人の人生は必ず負けることと決まっているのです。そして苦しめば、それだけエゴは生き生きとなるのです。

人生の中で、こうしたことに早く気づいて、それまで着々と培ってきた教育の中身を捨てて行くことこそが、本当の本当の学びなのです。

捨てるというと印象が強いですが、単にあなたの信念信条、考え方、ルール、正しさ、社会でどう生きるかなどをできる限り脇へ置いて、それにエネルギーを与えないようにするということです。

そして自分自身にできるだけ正直になることです。正直であるがままの自分を、それがどんな自分であろうとも丸ごと受け止め続けるのです。

そうすれば、エゴは自然と衰退していき、生そのものと一体感を持った毎日を生きることになるはずです。これ以上詰め込む人生の代わりに、今この瞬間にただ在る自分となることですね。

技術革新は興味深いけど…

最近、自動ブレーキ機能を搭載したクルマのコマーシャルをやたら見るようになりましたね。要するに、障害物を検知して、自動的にブレーキがかかるシステムです。

更には、ちょっと前でしたら夢のまた夢だったはずの、自動運転システムの技術も、実用の段階に入りつつあるなどという噂を聞いたこともあります。

技術革新というのは、本当に素晴らしいですね。今や、ハイブリット車は当り前になりましたし、今年新しく登場するトヨタの新型プリウスなどは、燃費が JC08 モードで40km/L を上回るかもしれないらしいです。

まだまだ主流にはなっていない電気自動車についても、将来的には道路の下に充電装置が埋め込まれて、走りながらも非接触で充電できるようになるそうです。ガソリンスタンドのようなものが不要になるということですね。

いつまで経っても酒酔い運転が後を絶たないなら、運転席に座ると自動的に運転手のアルコールの血中濃度を測定して、不合格の場合はエンジンがかからない装置などが開発されればいいと思うのです。

こうした技術の進歩が人を幸せにするとは全く思いませんが、それでもより快適により便利になることは間違いありませんし、理屈抜きでどうなっていくのかとても興味があります。

自分自身長生きしたいとは思っていないのですが、今後世界がどのような驚くべき革新を遂げて行くのか、それを考えると生き延びて見てみたいと思ってしまいます。

ただし、自分の経験と照らし合わせて冷静に考えたときに、例えば音楽でいえばレコード盤はいつしかCDになり、そこにMDが加わり、そして更にケータイなどの小さなハードディスクに入れておけるように進化しました。

すごく便利になったのですが、それが今ではごく普通のことになってしまっているのも事実です。そうやって、私たちは何がどれほど便利になったとしても、すぐにそれに慣れてしまうのです。

そのことを忘れないことです。そして、世の中がどれほど進化したとしても、自分の内奥深くに入ることなしには、誰も真の至福の中に入ることはできないのですね。

悪しき習慣を溶解する方法

私はかつて、自分の悪い習慣である「ダメだね!」という言葉を二度と使わないようにしようと決意したことがあるのですが、驚くなかれ決意して数分後にはその言葉を吐いていました。

人は何度も何度も同じことを繰り返してしまうのです。たとえば、もう二度と怒るのはやめようと決意しても、また何かの事情があれば怒ってしまうのです。

誰かに否定的なことを言われても、そんな言葉は聞き流して気にしないようにしようと思っても、またすぐに気が付くと誰かの言葉に反応している自分がいたりします。

大切な人に対して、相手が傷つく様な態度をとったり、相手が悲しむような言葉を吐くことを絶対にやめようと思っても、喧嘩などをしたときには、また憎まれ口を叩いてしまうのです。

こうした同じことの繰り返しをやめるということは、本当に難しいし、結局意思の力ではどうにもやめることなどできないということなのです。

あなたにも心当たりがあるのではないでしょうか?そんな時、なんて自分は情けない奴なんだろうと思って、意思が弱い自分のことを否定したりするはずですね。

でも心配はいりません。こうしたことは、マインドの特性なのです。つまり、マインドを持っている私たちの誰にも共通する特徴なのだということです。

だから、そこのところをあまり否定的に捉える必要はありません。そもそもやり方が間違っていただけだと気づくことです。こうした直接的なやり方、ダイレクトに自分を修正しようとすること自体がエゴそのものなのです。

実は誰にでもできる素晴らしい方法が一つだけあります。それは、間接的な方法です。つまり、「○○な自分をやめよう」という思考の代わりに、それをただ(無思考で)受け止めることです。

思考を使わなければ、マインドの外へ出ることができるのです。そこには、エゴの出番がないわけです。意思の力を使わないこの方法を繰り返すことで、問題はひとりでに溶解していくことになるのです。

社会の強者は癒しにくい

人生の中で、優位になれるような技術や、知識、資格や立場、人から高く評価されるような実績、こういったものを持ってしまうと、その人は非常に癒しが難しくなる傾向があるのです。

それはなぜかというと、そういうものに気づかぬうちにしがみついてしまうからです。本人はしがみついているなどとは決して気づくことがありませんが…。

例えば、「先生」などと呼ばれるような職業や立場だったり、アカデミックな知識を身に着けて、それを仕事にしているような場合などですね。

そういったものは、すべてがその人にとってのかけがえのない自己防衛の手段として使われてしまうために、本人の自覚のないままに執着が起きてしまうのです。

何かにしがみついている人は、そこから抜け出すことができないために、癒しを邪魔されてしまうのです。かえって、社会の弱者だと感じている人の方が、素直にセラピストの声に耳を傾けやすいのです。

それは当然のことですね。自分が変わっていくための最大の要因は、万策尽きたと感じるときや、何をやっても八方塞がりだと思えるようなときです。

自分には、「これ」がある限りは、社会の弱者なんかではないという自負があると、これまで培ってきた自分の正しさや信条、主義などを簡単には捨て去ることが難しくなるのです。

あなたの問題は、外側からやってくるのではなく、あなたのど真ん中にその種子があったのだということに気づかなければ、どうしようもないのです。

しがみついてきたものを捨て去ることはとても困難なことですね。それでも、不可能なことではありません。自分の奥深くに隠している本当の惨めさに気づいてあげることです。

その傷から目を逸らさずに、徹底的にそれを見てあげることです。

旬なときがある

若い頃に、映画を観るのが結構好きだったのですが、その頃に観て何だかつまらないなあと思っていた映画を最近になって再度観たときに、意外に面白く観ることができたということがあります。

映画の微妙なニュアンスだったり、淡々として刺激が少ない部分などはきっと、若い頃には退屈なものと感じてしまっても仕方がなかったのだと分かるのです。

映画そのものは何も変わっていないのに、自分の内面の変化によってどう反応するかが大きく変わってしまうということの表れですね。

またかつては、よくテレビでドラマを観ていました。今でも沢山思い出せるくらいですので、相当に興味を持って観ていたのだろうと思うのですが、最近は全く観なくなってしまいました。

全然食指が動かないというのか、大方予想がつくし、登場人物が病んでいればいるほど面白いということが透けて見えてしまうということもあるのかもしれません。

また、本にしても同じですね。会社員のころから、本屋さんに行って osho の本がずらりと並んでいるのを見かけていたのをよく覚えているのです。

それなのに、何度か手に取ってパラパラと見た記憶もあるのですが、結局買って帰ることは決してなかったのです。きっと、あの頃たとえ読んだとしても今のように心の奥深くに響いてはこなかったのだろうと思います。

タイミングというものがあるのでしょうね。セッションにおいても、似たようなことを感じることがよくあります。セッションを受け初めの頃のクライアントさんと回数を重ねた後のクライアントさんでは雲泥の差があるのです。

私自身は、いつも同じようなことを繰り返しているにも関わらず、クライアントさんはあたかも初めて聞いたとでも言わんばかりの反応をされることがよくあります。

そんな時、これ前々から何度もお伝えしてきたことなんですけどね…、と言うのですが、あまり本気にはして下さらない場合もあるくらいですから。

ある人にとって、その瞬間にのみ、ベストで響く言葉だったり経験というものがあるのですね。それこそが、本当の宝物なのです。誰にとっても、どんなときでも一定の宝物というものは存在しないということです。

何にでも、旬なときがあるということですね。

徹底的に受け止める

私は来る日も来る日も、セッションの中で「自分を受け止めること」を繰り返し提唱しています。それを是非とも実践して下さいと言い続けています。

それを実践することの効果には、本当に計り知れないくらいのものがあるからです。マインドを直接変えようとすること自体がエゴであり、マインドから抜け出ることこそが真の救いなのです。

生きてきたあらゆる局面で訴えたかった想い、自分自身にも隠そうとしてきた本音、そうしたものがマインドの中には無数に渦巻いているのです。

表面にあるものだけでも沢山あるのに、抑圧されて隠されているものはその何十倍もあるはずなのです。それをできる限り、丁寧に一つひとつ拾い上げてあげるのです。

受け止めるためには、そうするしかありません。それは、他の55言い方をするなら、それらの存在を見てあげるということになりますね。存在していることを認めてあげるのです。

どんな惨めな想いであろうと、どんな卑劣な考えであろうと、決して認めたくない恥ずかしい自分であろうと、なんであろうがただ見て、それを受け止めるのです。

問題となる部分を直接改善しようとする代わりに、ただその存在をありのままに見て、受け止めるだけでいいのです。その間接的な方法こそが、問題を解消する最大の方法なのです。

問題を解決しようとするエゴの努力の代わりに、問題が自動的に解消していくようにするということです。そのためには、マインドから出ることしかありません。

マインドから出て行くというのではなく、ただ見て真に受け止めるなら、自動的にマインドの外にいることになるということです。

徹底的にこの実践を続けることです。あなたの意識が、マインドの中よりも外にあることの方が増えて来れば、痛いのに痛くない、暑いのに暑くないという経験をすることも可能になってくるのです。

そうしてこれまで人物としての自分が100%で生きていたものが、人物(マインド)とそれを見る側(無思考)に別れて、その間にすき間ができてくるのです。

その結果、間違いなく深刻さを持ち歩かなくなるでしょうし、人生を物語として見ることが本当にできるようになるはずなのです。

これ以上エゴに餌をやらない

あなたという人物が、あなたの人生の主役として、その中心的存在であるのなら、あなたのエゴは常に活力あふれる状態であると言って間違いありません。

あなたが人生をリードしているということが、あなたのエゴにたっぷりと餌を与え続けることになるからです。あなた独自の思想、生き方、社会での活躍などが、正にエゴを成長させているのです。

さらに言えば、あなたが闘っていれば、そして自己防衛に終始していれば、その結果あなたが苦しめばそれだけエゴは肥え太ることになるのです。

エゴが左うちわで余裕しゃくしゃくの人を時々見かけます。どれだけ、エゴにとって都合のいい生き方をされているんだろうと思わずにいられません。

実在しないエゴは、とにかく自分が存在するということを証明したいのです。うかうかしていると、やっぱりいなかったということがバレテしまうからですね。

もしもあなたが本当に満ち足りて、心から晴れやかで幼い子どものように無垢な気持ちで生きるなら、それこそあっという間にエゴは餓死することになるでしょう。

今日からエゴの言いなりになることをやめて、反対にエゴが衰えていくような生き方に変えるつもりはありませんか?もしもその覚悟があるのでしたら、いくつか方法があります。

その一つは、行動型の生き方を少し見直すことです。大した用事でもないクセに、あれをしなければいけない、これをやっておかねばならないと言って、常に動いてしまうことをやめてみるのです。

本当にしなければならないことなど、そうそうあるものではありません。何かをしなければという思いがやってきたときに、そのことに気づくことです。

そして、その思いに巻き込まれずにただそれを見ているのです。ただ見ていることがとても大事なのです。そうやってエゴの誘いを無視するのです。

相手にされないと、その分エゴは餌をもらえないことになるのです。それができるようになったら、あなたは退屈するようにもなるはずです。

退屈がやってきたら、これも次のステップへのチャンスだと思って、その退屈をただただ見ているのです。誘いにのって何かをしないでいるようにすることです。

徹底的に退屈を感じきればいいのです。それができたときに、退屈という感覚がエゴの仕掛けた罠だったのだということを理解することができるでしょう。

これだけで、あなたのエゴは半分以下の勢力に減退していくはずです。それに比例して、あなたはそれまでと比べられないくらいに、自分の内面に気づけるようになるはずです。

そうしたら、瞑想三昧できるようになりますね。