苦しみの種はどこに…

日々のセッションの中で、クライアントさんは様々な訴えをされるわけですが、そのうちでも一番多いのが自分の身に起きたこと、特に他人にどうされたかというお話しが多いのです。

たび重なる不満を訴えたいその気持ちは、充分に分かるしそれなりに受け止めることもできるのです。けれども、どんな目に遭ったのかというところに視点がある限り、癒しを進めることはできないのです。

ご本人の中では、されたことこそが、自分が苦しむことになった原因であると判断しているのでしょうね。誰だって、誰かに理不尽なことを言われたりしたら、傷ついてしまうのですから。

ところが、ここでどうしても気づかねばならない大切な事柄があるのです。他人があなたにしたことが、あなたの苦しみの原因ではなくて、それは結果に過ぎないということです。

原因はどこにあるのかというと、すべてがあなた自身の内面に隠されているのです。その隠されたエネルギーこそが、他人をしてそのような働きかけをあなたに対してさせたと見抜くことです。

そしてそのエネルギーというのは、あなたの過去のどこかで体験したことが原因となって、不当に溜め込まれて解消されずに残っていたものなのです。

つまり、整理するとこういうことです。

1.過去に何等かの理由で否定的なエネルギーが溜め込まれた
2.そのエネルギーが他人を引き寄せて、その人に同じエネルギーを誘導させるような言動を起こさせた
3.それによって、あなたは不快で苦しい思いをすることになった

多くの人々は、事柄の表面部分である、この2.の後半部分だけを見て、自分が被害に遭ったと思い込んでしまうというわけです。

それでは、あなたは他人の奴隷の立場から永遠に解放されることができないということになって、どこにも希望は見い出せなくなってしまいますね。

本当は、1.の部分からすべてが始まっているのです。すべてはあなたの内奥のどこかに、あなたが苦しむ種が隠されているということです。これは、朗報ですね。

なぜなら、あなたさえそのことに気づけば、人生を変えて行けるということになるのですから。

自分(自我)が死ぬまでは…

大したこともせずに、ただ日々を生きてきただけでも少しは気づきがあったりして、その度に何となく自分はダメだなあと思っていたことが少しずつ小さくなっていったのです。

例えば、10代の若いころは、自分はなぜ人を本当に愛することができないのだろう?と思っていました。人としての能力のどこかが少し欠落しているのかもしれないとも思ったりしてましたね。

けれども、自分という人物がいる限りは、決して真の愛に気づくことはあり得ないということが分かって、ホッとすることができました。それで愛のない自分でもOKが出せるようになったのです。

また、大人になって社会人になって、何を成し遂げたとしても、そこからやってくる達成感がひどく乏しくて、せいぜい一晩も経つとどうということもなくなってしまうということが多々ありました。

随分と損な性分だなと思っていたのですが、今となってはそれは当然のことだったと分かるのです。達成感というのは、まだ達成していない過去の自分と現在を比較した時にこそやってくる感覚なのです。

従って、達成感が長持ちするということは、過去を強く引きずって生きていることの証しなのです。過去を忘れた人には決して達成感などないのですから。

そして最後にもう一つ、心の闇をいくら癒したとしても、それでも尚心の中には何かが足りないという満たされない思いというものが残ったのです。

それではセラピーも意味がないのではないかと悩んだこともありました。けれども、結局は払拭できない不安や欠乏感というのは、自分(自我)がいる限りは、決してなくならないのだということに気づいたのです。

勿論そのことに気づいただけで、楽になったわけではありませんが、それでもそういう自分はそれで在る以外には方法はないということが分かって、穏やかな気持ちでいられるようにはなったのです。

そしてとうとう最後に残されたこと、それは自分(自我)が死ぬまでは何をしてもしなくても同じだということ。どんなに腹をくくっても、ここから先はやっぱり難しいのです。

日々瞑想をすることだって、それを自分にさせているのは自我そのものであって、そうやって自己探求を続けることこそが、自我を強めているということも確かなのです。

万策尽きるところまで行くしかないのですねきっと。

どん底に突き落とす

セラピストの立場としては、何であれクライアントさんにはセッションにいらして欲しいというのが本音なのです。なかなか難しいなと感じるクライアントさんであってもです。

けれども、ごくたまにはこちらの方からセッションをお断りするというケースもないことはありません。昨年もありましたし、一昨年もそうしたケースがあったと記憶しています。

それは、激しい依存だったり、こちらの意向を無視して自分勝手な癒しの方法を続けようとしたりと、そのような場合、時間とお金と労力の無駄だからという理由で、ご予約をお断りしたのです。

そして最近では、そこまではっきりとお断りするのではないのですが、暗にこの状態ではセッションをしても効果がないということをお伝えすることもあるのです。

というのも、これまでクライアントさんが培ってきた正しさや信念信条、そうしたものにしがみついている状態では、どうやっても癒しを進めて行くことができないと感じるからです。

それが分かっていながら、何となく来てほしくて曖昧な表現をするのも、正直さに欠けるなという思いが強くなってきたからなのです。

人生の勝ち組であるという思い込みや、競争に勝ち抜いてきた結果などにしがみついている状態では、けっして癒されないと分かるからなのです。

そのような場合には、もっともっととことんまで参ってしまうとか、命に関わるような病気になったり、耐え難いような苦しみがやって来て初めて、ご本人のしがみつきが弱まることでしか、道はないのです。

どん底に落ちていただくためにも、かなり冷たく突き放してしまうということも場合によっては必要なのです。きっと、ご本人に気づきがやってくるまでは、相当に恨まれることになるでしょうけれど…。

最近になって、ようやくそういうことができるようになってきたのです。誰でも長年やり続けていれば、少しは進歩もするものなのですね。

瞑想がカギ

最近どういうわけか、セッションにいらっしゃるクライアントさんの中に、瞑想に興味がある、瞑想をやってみたい、そう言って下さる方が増えています。

時代の流れなのか、何かのウエーブがやって来ているのか分かりませんが、とにかくセッションの最後の方で瞑想の話題が出ることが多いのです。

私としては、願ったり叶ったりのことなので、すぐに自分がセッションをやっている本当の目的は、誰もが瞑想をできるようになってもらうことなのだと伝えます。

少しびっくりされる場合もありますが、すぐその場でじゃあ一緒に瞑想をしてみましょうとなることも増えてきたのです。

瞑想の目的は、いろいろ言えるのですが、一番簡単な表現を使えば、自分の本質に気づくためということになりますね。それがどういう意味なのかは、また少し説明する必要がありますが…。

昨日のブログでもお伝えしましたが、今の自分が人生の主役の座でいる限りは、人は人生を充分に生きることができないのです。

自分を改善しようとするエゴの働きかけから抜ける必要があるのです。そのためにも、瞑想がどうしても必要なのですね。中には、瞑想がいらない人々もいるでしょう。

その人たちは、十全に生きて、十全に愛し、十全に祈ることができる人々です。彼らは、その生き方自体が過去にエネルギーを残さないので、生を完全に生きることができるのです。

けれども、一般的にはマインドにコントロールされた不完全な人生を生きているのです。その場合には、瞑想によって自分の奥深くへと入る必要があるのです。

もしもあなたが、瞑想をしたくてもできないでいるのでしたら、セラピストの力を借りてでも癒しを進めることです。そうして、マインドのエネルギーがある程度治まった時にこそ、瞑想をすることができるようになるのですね。

ただ見ることに徹する

人生というのは、本当に皮肉なものだと思うのです。これ以上の悪い冗談はありませんね。なぜなら、人は誰もができる限り生き生きと満ち足りて、清々しい生を送りたいと望んでいるのです。

けれども、それを阻んでいるのは唯一それを心から望んでいる自分自身だからです。他には何一つありません。正直言って、真にそのことに気づいてからまだ10年は経っていないかもしれません。

そのことをつらつら思うと、誰もが人生の中で尤もらしく生活しながらも、ある意味悪あがきを続けているということがよ~く見えてしまうのです。

そして残念ながら、そういう私自身もまったくその悪あがきから足を洗うことができないでいる一人なのですから。その悪あがきから本当に抜けるためには、自分が死ぬ以外ないのです。

だから皮肉なストーリーだというのです。あなたが夢も見ずに熟睡した後、何とも気持ちがいいのは、その間あなたがいるという自覚が喪失していたからに違いありません。それはつまり、一時的な死の状態です。

熟睡している間、あなたが居ずに無欲だったからです。無欲とは、マインドが停止している時にしかやってきません。それがどれほど心地いいものかは、誰もが薄々気づいているのです。

けれども、目覚めた瞬間から、またすぐにマインドが立ち上がって、どうしたら幸せになれるのだろうかという欲望の中へと私たちを連れて行くことになるのです。

あなたが幸せに向かって頑張れば頑張るほど、それだけあなたの欲とマインドは成長してしまうのです。これほどの逆説的な現実は他にありません。

それじゃあどうしたらいいのか?どうしたらその悪あがきを止めることができるのか?一つ言えるのは、このどうしたら悪あがきを止めることができるのか?という思い自体が、悪あがきそのものだと気づくことです。

悪あがきを徹底的に注視することです。それをただ油断せずに見ていること、それにしっかりと気づいていること、それだけでOKだし、それ以外はすべてマインド(エゴ)の作戦に巻き込まれることになるだけです。

ただ見ているなら、見られているエゴは次第にエネルギーを弱体化させていくはずです。それは求める結果としてではなくて、成り行きとしてそうなるのです。ただ見ることに徹するのです。

「する人」から「在る人」へ

一般論ですが、人は何か目標になるものを持っていた方がいいと言いますね。その目標を達成するために、頑張ることができるからです。

戦前、そして戦時中は立派な軍人になって、祖国のために闘うということがありました。そうなると、男性はかなりの低年齢から士官学校を目指して頑張るようになったりしたのです。

誰もが認めてくれるような立派な目標があれば、人はぶれずに頑張ることができるということのいい例ですね。でも、今の若い人はそういった国を挙げて目指すような目標がないので、可哀想だという人もいます。

私自身は若い頃から、人生に目標となるものを持ったことが一度もありません。何となく学校を受験して、周りの誰もが働く年齢になったから、自分も就職するというように、ごく普通に生きようとした結果そうなったのです。

自分独自の目標など、一つもありませんでした。なんたって、幼い頃の目標が「楽隠居」だったのですから。もうすでに、そのころから社会を恐れて敬遠していたのでしょうね。

未来に対する明るい希望など、何も持ってはいませんでした。だからといって、暗く沈んだような人生を生きてきたわけでもないのですが…。

ただ、何かを成し遂げるということとは無縁の毎日だったことは確かです。そして今では、マインドの中をいくら探し回っても、やはり目標はないという結論が出てしまっています。

それはもしかしたら、自分にとってはある種の幸運だったのかもしれないと思うのです。外側にやることが何もないのですから。そうなると、「する人」から「在る人」への移行が起こりやすいと思えるからです。

私もまだまだ、「する人」の部分を持ち歩いていますが、少しずつですが、「在る人」へと変わりつつある自分に気づくこともできるのです。

このことは仏陀がずっと言い続けてきたことらしいですよ。あなたの本質は、することではなく、ただ在ることだとね。

人生と闘わない

もう何度も繰り返し、このブログでお伝えしていることですが、やっぱり言わずにはいられないのです!人生と闘うことを是非止めていただきたい!

やめたくてもやめられないという気持ちは、充分に分かったうえで、再度言いたいのです。『闘っている人は、必ず負けることになり、闘いをやめた人だけが勝利する。』ということです。

このことを肝に銘じて欲しいのです。闘って、どれほど勝利を収めたとしても、それは一時のことであって、それで満たされるということは決してありません。

あなたが闘っている限り、それが勝っても負けてもどちらにしてもエゴの最高の餌になるということを憶えておいて欲しいのです。

闘っている限り、あなたのエゴは安泰であり、逆にあなたの人生は消耗していくことになるのです。闘いの人生には、愛の要素がひとかけらもありません。

なぜなら、恐怖が闘いのエネルギー源だからです。あなたが、闘うことから足を洗うことができない理由は一体何でしょうか?そこを明らかにする必要がありますね。

この社会は戦場だという表現がありますが、それこそが闘っている人々にとっての言葉なのです。それはお金のためですか?闘わずして豊かになれないと思い込んでいるのかもしれません。

闘っている人の内面が豊かではないことは、きっと誰もが知っていることですね。なぜなら、彼の心には余裕がないのですから。安らいだ気持ちでいることはとても難しいことなのです。

あるいは、闘いの目的は自分の価値を見出すためでしょうか?頑張って結果を出して、誰かに認めてもらうことでしか、生きていけないと思い込んでいるのかもしれません。

まず勇気を持って、少しずつ闘いに使っていたエネルギーを緩めて行くことです。始めは恐怖がやってくるでしょうけれど、そのうちには思ったほどではないと気づくはずです。

あなたが闘いに使っていたエネルギーのうち、半分でも楽しみに使うことができるなら、人生はすっかり変わってしまうでしょう。

闘う分だけあなたには敵が現れるはずです。その逆に、闘いをやめて、無防備になればそれだけ周囲はあなたに微笑んでくれるようになります。本当ですよ。

まずは力を抜いて、この生を信頼してみることです。結果など放っておいて、それこそ let it go ですね!

「気分」を見つめる

誰でも不自由な状態よりも、より自由でいたいと願っていますね。私たちは幼い頃から自由であろうとしたのですが、残念ながら周囲からの圧力によっていつかは負けてしまうのです。

つまり、自由と安心を天秤にかけて、不自由であっても安心していたいと思うようになるのです。そこから、ずっと不自由さが付きまとう生活となるのです。

勿論、手に入れた安心だって一瞬のものであって、すぐに不安な状態へと戻されてしまうのです。結局、自由も安心もどちらも手には入らないのです。

私はあるときから、自分の自由をできるだけ追及する人生へ変えようとして、ある程度はそれが実現しました。といっても、その自由さとは自分の外側に関するもの、物理的なものに関してなのです。

朝何時に起きるとか、どのような一日を過ごすかなどです。会社員の頃と比べたら格段に自由度が広がりました。その点はよかったのですが、内面の自由さについてはそれほど変化はないのです。

そして、真の自由とは人から見えない部分、自分の内側の自由さにこそあるのだと分かったのです。今私が一番不自由だなと感じているのは、どこからともやってくる自分の「気分」に対してなのです。

この「気分」というのがとてもクセモノで、最終的にはそれの奴隷状態にあるなと自覚したのです。どんな理由にせよ、気分が悪くなるとそれを立て直す気にもならなくなるのです。

例えば身体の具合が悪いのも苦手ですが、それは具合が悪くなると気分が悪くなるからだと気づいたのです。ちなみに、身体の具合が悪くても、ごくたまに気分が悪くない場合があって、その時は自由さがあるのです。

この眼には見えない「気分」というものを徹底的に見ることによって、自分から切り離すことができればいいのですが、長い間のクセで気分が悪い自分というものと同化してしまうのですね。

努力して、気分を変えようとしたこともありましたが、この方法は今は使わないようにしています。なぜなら、それは本質的な解決にはならないからです。

単純に気分との同化を落とすことこそが、唯一の方法だと感じるのです。「気分」が恥ずかしくなるくらいに、凝視し続けてあげることですね。

気づいている訓練

今年一年を通して、是非続けて行きたいと思っていること、それは去年に引き続いて、毎瞬毎瞬に気づいているということです。言葉で言うは易しなのですが、これが実に難しいのです。

難しい理由の一つには、そもそもそのことを忘れてしまうということがあります。テレビを見ている時、本を読んでいる時、誰かとお話しをしているとき、すぐに「気づき」を失ってしまうのです。

独りでいて、特別何もせずにいるときには、それを思い出して今この瞬間にただ在ることはできるのですが、それもほんの少しの間だけ。すぐに忘れてしまいます。

その忘れ方といったらもう、本当にいやになってしまうくらいです。毎朝30分程度クルマを運転して、スポーツクラブに行くのですが、自分では絶好のチャンスだと思っていながらも、忘れてしまうのです。

右側通行をしているダメな自転車だとか、クルマを気にせずに道路を横切る歩行者、そうした諸々に少しでもイラッとさせられてしまうと、たちまちのうちに忘れてしまいます。

それでもなおしぶとく続けて行こうと思う理由は、その瞬間に気づいていることによって、より意識的でいられるようにするためです。

注意深くいて、常に意識を保っていられれば、それだけ無意識のマインド部分が少しずつ意識へと持ち上げられていくからです。

動物は完全な無意識であり、光明を得た人は完全に意識的であるため、どちらも苦悩というものがありません。私たち人間だけが、約一割だけが意識的で残りの部分は無意識なのです。

だから常に葛藤を抱えているのです。もしも、人間としての苦悩から解放されたいのであれば、動物に戻るかその反対に光明を得るかのどちらかしかありません。

今年一年かけて、どれだけ気づいていられるようになれるのか、一年後に覚えていられたらこのブログでご報告したいと思います。

ただ「待つ」ということ

よく言われることですが、男性性は攻撃的であって、その逆に女性性は受動的であるということがありますね。これは実際に男性か女性かということではなくて、男性性と女性性の違いなのです。

私たちが持っている五つの知覚の中でも、ひときわ攻撃的なものが視覚です。目力なんていう言葉もあるように、見るということは能動的であり、場合によっては攻撃的でもあるのです。

あの人誰かに似てるなあ、などと思って見ていたら、それがその人に知られて怪訝な顔をされるなんてこともあります。あれは、その人にとって何となく攻撃されてるようないやな感じがしたからなのでしょう。

だから男性の多くは、知覚の中でも視覚がダントツ一位で使われているのです。狩猟が主な役目だった男性が視覚を主に用いるのも当然かもしれません。

その一方で、聴覚、味覚、嗅覚というのはどれも受動的なものです。外側からやってくる刺激を受けとって、それを感じるものだからですね。

そのために視覚のような方向性というものを持たずに、常に自分が刺激の中心にいるのです。例えば、街の雑踏の中にいれば、自分の周囲からやってくるあらゆる方向からの音を聞くことになりますね。

だから受動的な女性の場合は、視覚よりも聴覚などをメインに使っているのです。女性が男性のいい声などに魅了されるのは、そういう理由があるのです。

触覚だけが双方性というか、能動的な部分と受動的な部分のどちらもあると言えます。で、今日は本当のところ何が言いたいのかというと、攻撃性こそがエゴであり、受動的なことこそが覚醒への道に必要だということです。

つまり、女性性が持っている受動性、その中でも「待つ」という特性、それがなければ私たちは自分の本質への気づきを得ることはできません。

エゴ丸出しの子どもや男性性は、「待つ」ことがとても苦手ですね。受動性の行きつくところは、ただ待つということです。実は私は今もって待つことが苦手なのです!

何かを当てにして待つということではなく、ただ「待つ」ということを通してエゴは自然に落ちて行くしかなくなるのです。ただ「待つ」という態度、今年はそれを探ってみようと思っています。