男性性は攻撃的であり、女性性は受容的である。
「待つ」という質は、その受容性の中に含まれている質であるということができる。
古い時代を紐解いても、探究者の多くは男性であったような気がする。だからとても難しいのだ。
探究は男性性の中にある攻撃的な面を持ちながらも、土台の部分には「待つ」という女性性を欠くことができない。
それは、ちょうど眠ることと同じ質を持っている。私たちは、眠るための準備はあれこれとすることができる。
実際できることと言えば、準備だけであって、直接自分を寝入らせることはできない。
準備ができたら、あとは眠りが訪れるのをただ待つだけだ。
真理の探究にも同じことが言える。
私たちには、真理に対して直接的にできることは一つもない。ただ待つだけだ。
「待つ」という質を忘れるなら、探究が成就されることはない。
そうした探究そのものが、真理への障害となってしまうからだ。
実は、期待せずに待つということの中にこそ、真理への誘いが含まれているのだから。