たまにはボヤキが出ることも…

最近、瞑想をしようと思って静かにしていると、突然眩暈のようなものを感じて吐きそうになるので、気持ち悪くてまともに瞑想をすることができなくなってしまいました。トホホ…。

長い人生、こんなこともありますよね~。

そんなとき、根性でそれを克服しようという意気込みは、残念ながら私の中にはないようです。ですので、今は潔くさっさとあきらめて、寝ることにしています。

…というボヤキでした。

求めることをやめるとき

人から聞いたことだけで、心から納得するということはありませんね。どんなことであれ、実際にそれを体験してみないことには、本当には実感を持って知ることはできないからです。

だから、私が例えばどれほどお金持ちになったとしても、満たされることはないですよと言ったところで、そうかもしれないけれど経験してないので分からないと言われてしまうのです。

もっと一般的に言えば、この世界で何をどれほど手に入れたとしても、やっぱり永遠に満足するということはないのです。こうなると、それを全部網羅して体験することなど不可能なことです。

だからどこかで、類推することで気づく必要があるということですね。自分が体験したことで、それをベースにして想像すればどれも似たようなものだということが分かるはずなのです。

私は半世紀以上生きて来て、本当に何を手に入れたとしても、嬉しいのは一時だけで結局は次なるものを求めてしまう自分にいやというほど気づきました。

早く気づけば気づくほど、あなたは救われるチャンスが近いのです。なぜなら無駄な努力に時間を潰す必要がなくなるからですね。

人生はそれほど長くはありません。有り余るような時間など本当はないのです。だから、早めに気づいた方が有利なことに違いはありません。

いつ気づくか?今でしょう!

求めることをやめたとき、完全に満たされていることに気づくことになるのです。
なんという皮肉なことか…。

恐怖症の正体

世のなかには、無数の恐怖症の症状があります。たとえば、揺れるものがとにかく怖いと感じる症状、あるいは音が怖いと感じる人、極度の潔癖症などは、不潔を怖がる症状だと言えるのです。

なぜ数えきれないくらいの恐怖症があるかというと、本当のところ、怖がっている対象は何でもいいからなのです。恐怖症の目的は、怖がることそのものにあるからです。

ではなぜ、怖がる必要があるのかということですが、幼い頃から蓄積してしまった恐怖の感情を利用して、本人の人生を大変な事態に陥れることを画策しているからです。

その背後にある本当の目的は、そうした苦しんでいる人生を親に見せつけて、相手のせいにして鬱積した気持ちをぶつける代わりにしようとしているということです。

私はそれを「問題行動」と呼ぶことにしています。あらゆる問題行動のうちでも、上述した恐怖症というのは群を抜いて人生を破壊してしまいます。

もしも、何か心当たりがあるという場合には、セラピーを受けることをお勧めします。この問題行動は、心療内科などで処方してもらう薬などでは決して解決することはありません。

恐怖を感じるように強いているのは、他でもない自分自身だったと気づくことができた人は、そこから何かしらの癒しが始まるはずですね。

起きていることをただ受け容れる

昔々ある村に素晴らしい馬を飼っている爺さんがいました。村人たちは、爺さんがその馬を持っていることを、とても幸運なことだと言っていたのですが、爺さんはただその馬がいるだけだと言っていたのです。

その馬の噂を聞きつけた王様が、破格のお金でその馬を買い取りたいと言ってきた時、爺さんはきっぱりと断ったのでした。それを聞いた村人たちは何てバカなことをするんだと言いました。

そんな幸運なことを断るなんてと…。でも爺さんは別に幸運なことではないと、馬は大切な家族だからどれほど高額でも売るなんてできないと言ったのです。

そんなある日、その馬が突然逃げてしまったのです。それを見た村人は、ほら見たことか、王様の申し出を断ったから、こんな不運がやってきたのだと言いました。

けれども、爺さんは別にただ馬が逃げただけだからと言ったのです。ところが、数日して、その馬が他の野生の馬を10頭も連れて帰ってきたのです。

それを見た村人たちは、なんと幸運なことがあるんだと言ったのですが、爺さんはそれについてもただ馬が馬を連れて戻っただけだからと言ったのです。

野生の馬を馴らそうと、爺さんの息子が馬に乗って調教しているときに、落馬して足の骨を折ってしまったのですが、村人はそれを見てなんて不運なんだと言ったのです。

勿論その時も爺さんは、ただ息子が足の骨を折っただけだからと言ったのです。その頃、国が戦争を起こして、その村の若者もみんな徴兵されてしまったのですが、爺さんの息子だけは足を骨折してたために、戦争に行かずに済んだのです。

それを見た村びとたちは、口々に幸運なこともあるもんだと言ったのですが、爺さんはそのこともただそういう成り行きになっただけだと言ったのです。

そして、この話しはこのようにして延々と続くのです。もう分かりましたよね?何が起ころうと、それはただ起きているだけで、爺さんのように淡々と受け容れていることができるなら、この世界に憂うことなどないということです。

生きる権利

今日もシンプルに…

生きる権利とは

そのために誰も闘う必要がないというものである

それはその人に約束されていて

<存在>によって保障されているのである

だから安心していいよ~

<存在>は、あったかいんだから~ ♪

以上

ただ在るということ

今日もシンプルに…

あなたは何かを達成するためにここにいる

何であれ、その何かを達成するというまさにその考え方を捨てる事

もしもあなたがそれを完全に捨てたならば

あなたは悟りそのものになる

以上

この世を見る眼が偽りに満ちている

今日もシンプルに行きます。

「この世界は幻想だ」という人もいるが

それをもっと正確に表現するなら

あなたがこの世を見る眼が偽りに満ちている

それこそが幻想だということ

信念として持っている自己イメージこそが幻想であり

その仮面としての自己イメージを脱ぎ捨てない限りは

幻想の世界でフラフラしているようなものだということ

以上!

自己イメージを落とした後に残るもの

あなたの人生の中で、自己イメージを手放すことほど大切なことは他にありません。

なぜなら、幼い頃にでっち上げられた自己イメージを、まともに信じてしまったために、それがまるで真実であるかのようになってしまったからです。

自分という存在がナニモノなのかを知らずにこの社会で生きていくことはほとんど不可能です。だから、何であれ自分とはこういう存在なのだという自己イメージにしがみついてしまったのです。

それが肯定的なものであれ、否定的なものであれ、自分のアイデンティティの土台となってくれるのなら、なんでもよかったのです。

それを信じ、信念のようにして社会の一員として生きていこうとしたわけです。

その自己イメージがどんなものであれ、100%でっち上げられた途方もないウソであることに心底気づき、間違った自分像から脱却するためには、それを手放した後に残るものこそが自分の本質だと気づくことです。

さて、もしもあなたがその自己イメージをすべて手放したとしたら、一体何が残ると思いますか?それをできるだけ正直に、誰の意見を聞くでもなく、素直に見てみることです。

徹底的に内側に入りこんで、見つけようとすることです。それがあなたの本当の姿に違いないからです。答えはあなた自身で見出すことですね。

それは理解でもなく、学ぶことでもありません。ただ体験を通してのみ知ることになるのです。

もっと注意深く在ること

今朝びっくりするような体験をしました。

クルマを運転している時に、歩道を歩いている人や自転車に乗っている人たち全員が、まるで眠りながら活動しているような感じがしたのです。

それは誰もが揃って、まるで夢遊病患者であるかのようでした。ああ、気づいていないってこういうことかって…。

その時、それは同じように自分についても言えることなんだと…。

もっともっともっと意識的であり続けねば、動物と同じになってしまうと…。

外を見ている自分を見、自分の思考を見、自分の身体を見、自分の気分を見て、あらゆる一切に気づいているように注意深くいること。

その時、思考はおのずとストップし、今この瞬間のみがあると知ることになるのですね。