昨日のブログは、ちょっと過激でしたね。きっとついてこれないでしょう。書いている私自身の中でも、そんなのダメだろうという奴がいますから。
でもせっかく年が明けたので、過激シリーズ第二弾を書こうと思います。いろいろなことを知ってる人、つまり物知りな人がいますね。私たちは、知らない人よりも知っている人の方を尊敬しがちです。
知識とは一体何でしょう?学校で習ったことや、人に聞いたことや本で読んだ情報、仕事で学んだことなども含まれるでしょうね。
そういった情報から得た知識というのは、実は本当には知ってるわけではありません。外から来たものだからです。
私たちはそれをあたかも知っていることとして取り扱うクセがついてしまっているのですが、それはただ信じているだけなのです。
知らないからこそ信じることができるのです。本当に知っていることを信じることはできません。だから知識が豊富な人は、それだけ信じている情報が多いということ。
たとえば、あなたの友人が一度も恋愛をした経験がなくて、何千冊も恋愛の本を読んで恋愛についての豊富な知識を持っていたとしても、恋愛を知っているとは判断しないはずです。
逆に一度でも恋愛の経験をすれば、少しは恋愛の何たるかを知ったことになるということです。神についての神聖な本をどれだけ読んで暗記しても、神を知ったことにならないのは当然です。
有神論者も無心論者もまったく同じこと。神は存在すると信じているのか、神は存在しないと信じているのかであって、両者とも単に信じているに過ぎません。
大切なことは、知識というのは単に信じている情報だと気づき、一度信じるのをやめてみるということです。何を信じたとしても、あなたが豊かになるわけではないからです。
逆に、エゴに餌を与えているようなものです。何もせずに、心静かにしていると自分は何も知らないということに気づかされます。
そうすると、その先には自分がいるということもただ信じていることだったという気づきがやってきます。あなたがいないと気づくと、人は最大限の個性が開花し出します。
なぜなら、あなたというエゴがほかの多くのエゴと共通の似たり寄ったりの生を生きているからです。覚醒して人格を落とした人たちの何と個性的なことか。