あなたは決して満たされない

昨日のブログで、不満というものが私たちのマインドの餌だという話しをしました。言葉を変えれば、不満な状態であることがマインドなのだということ。

このことは、何度も繰り返し深く理解する必要があります。なぜなら、私たちは自分の全人生をかけて、その不満を何とかして満たそうとしているからです。

このパラドックスは、どうしようもないものです。だって、不満があるという状態=自分(マインドといってもエゴといってもいい)がいるということなので。

満たされたいという欲望は、自分が存続しなくなるということを意味しているのですから、これほどのパラドックスは他にはないでしょう。

つまり、あなたが居る限りは、決してあなたは満たされることがないということなのです。じゃあ、この人生って一体何なんだ?ってことになるわけです。

今回の人生では、ちょっと不満が残ってしまったので、また次の人生に期待をかけよう。次回こそは、完全に満たされた人生を送れるように…。

そうやって、私たちは一体何万回人生を繰り返してきたのでしょう?数えるのもバカバカしくなります。けれども、それが私たちの実体です。

あなたさえいなければ、あなたのエゴ、あなたのマインドさえ消滅してしまえば、満たされる必要さえないあなたの本質が顔を出すのに。

自分を満たそうとするあらゆる努力をやめて、安心を手に入れようとするすべての闘いをやめて、無防備でいることです。何もせず、静かに坐っていれば、春は来て、草はひとりでに生える、ですね。

求めても決して入手できないものとは?

私たちのマインドというのは、不満を餌にして存続しているのです。不満である限り、何かを求め続けるのは当然のことですね。

私たちが未来への期待を失くすことができないのは、そういう理由なのです。もしもあなたが、ずっと求めていたものをとうとう手に入れることができたとしたら、あなたは満足することになるでしょう。

その満足がずっと続くようなら、あなたのマインドは飢え死にすることになってしまうので、その満足はすぐに別の何かを求めて、不満の状態へと戻されるのです。

そうやって、求めていたものが手に入ると、また更に次々と別のものを求めて明日から人生を再スタートするのです。下世話なものを求めている人は、求める対象はしょっちゅう変化するでしょうね。

なぜなら、下世話なものほど容易に手に入れることができるからです。その一方で、とてもずるいマインドもあります。それは、求めても求めても決して手に入れることができないものをターゲットにするマインドです。

それは、一度ターゲットを決めてしまえば、死ぬまで求め続けることができるからです。その入手不可能なものって、一体何だと思いますか?

それはあなたの外側のものではなく、あなたの内側に元々あるものです。すでにあるものを求めて、手に入れることはできませんからね。

あなたがすでに、それであるものだけは決して入手不可能なのです。それは、真実のあなたの実存。だから、何も求めることをやめて、静かにしているなら、あなたのマインドは消滅し、あなたの真の顔が顕われるはずです。

超簡単瞑想のプラクティス #1

瞑想はよさそうだと思うのだけれど、実際にやるとなるとどうも上手くできそうにないとか、何だかやる気がしなかったり、すぐに飽きてしまうからやらないという人もいるはずです。

私自身も時として、まったく気乗りしないこともあって、そういう場合にはすぐに諦めてやめてしまいます。いつも思考過多で全く心静かになれない人は、きっとこんな感じなのだろうと分かるときがあります。

そんなときに使える、すごく簡単に誰でも瞑想体験ができるラク~な方法があるので、今日はそのうちの一つの方法を書きます。いたってシンプルな方法ですので、是非試してみてください。

一人でテレビを見ているときに、突然リモコンの消音ボタンを押して、一時的にテレビの音量をオフにするのです。その状態で、それまで通りただただ画面を見るのです。

ただこれだけ。画面の内容に注意を向けずに、その時にやってくる静寂を充分に感じていると、自分のマインドも静寂に包まれていくはず。すると、同時にそうしている自分へと意識が向くはずです。

この状態は、瞑想そのものなのです。気が向いたら、是非このプラクティス #1を試してみて下さい!

可哀想に負けない!

若い頃から自分の中で、モットーにしていたのが、タイトルにも書いた「可哀想に負けない!」なのです。このことは、このブログでも過去何度か書いたことがあります。

なぜかまたそのことを書きたくなったのですが、それは、実は未だに私自身の中に可哀想に負けてしまいそうになる部分があるからです。

自分と相手の意向が異なる時に、まあいいかという感じで相手の気持ちを優先してしまうのです。それは、自分を優先したときの罪悪感がいやだからなのです。

自分の気持ちを押し通すことで、相手を可哀想な状態にさせてしまう罪悪感が、どうしても辛くて、その苦しさを感じるくらいだったら、ちょっと我慢をして相手の気持ちを優先しようとしてしまうのです。

これは誰の心の中にも多かれ少なかれあるものでしょうね。そして、このことが原因となって人生をとても苦しいものにしてしまっている人が沢山いるのも事実なのです。

可哀想な状態でいる相手をただ冷静に見続ける、見守り続けるということを練習することがとても大切なのです。

なぜなら、可哀想に負けて、相手の気持ちを優先し続けてしまうと、自己犠牲を積み重ねて怒りを蓄積することになるだけでなく、相手の人生にとってもよくない結果を生むことになるからです。

たとえば、可哀想に負けて、いやなのに相手の愚痴を長時間聞いてあげてしまったとするなら、自分も疲労困憊することになるし、相手も自分で問題と向き合うチャンスを奪われてしまうということ。

愚痴を聞いてもらった人は、すぐにまた愚痴を聞いて欲しいと言ってくるに違いないからです。なによりも、可哀想に負けるのは相手のためではなくて、自分自身の罪悪感からの逃避だと気づくことです。

可哀想に負けると、両者にとって百害あって一利なしだと断定できます。心当たりのある方は、是非とも今日から、「可哀想に負けない!」を実践して下さい。

無選択という選択

私たちが自由と呼ぶもの、それは自分の好きなように何かを選択することができるということです。誰かに遠慮したり、何かに気を使ったりせずに自分の気持ちを優先して選択できるということ。

実は、私たちが日頃何かを考えているときというのは、大量に空間を漂っている思考のエネルギーのどれを使うという選択をした結果なのです。

私たちが自分独自の考えだと思っていることであっても、本当はどこからともなく飛来してきた思考を選んだ結果だったということです。

だから今何を考えているかというのは、どの思考を捕まえたのかということを意味するのです。そこにやってきていない思考を使うことはできません。

もしもこうした思考の選択をはっきり自覚することができるようになるなら、もう思考の奴隷でいる必要はなくなります。

そしてもう一つの選択として、どんな思考も選択しないという選択の自由もあるのです。それはまるで、ラジオの電源を切っている状態です。

空間を飛び回っている電波にチューニングを合わせることで、つまり電波を選択することで望みのラジオ番組を聞くことができますね。

電源を切るということは、どんな電波も拾わなくするということ。飛んできた思考のエネルギーをどれ一つとして選択しないでいるということ。

そんな生き方ができるなら、あなたはあらゆるストーリーから解放された状態になるはずです。そして、思考はエゴの餌なので、あなたのエゴは消え失せてしまうでしょう。

それを思考で想像することは不可能なことですね。

オリジナルの自分との距離

セッションをしていて、よく思うことなのですが、人は自分のオリジナルから離れた分だけ、病んでしまうということです。

生まれたままの、オリジナルの自分のままでいることが、本当に難しいということなのですね。

なぜなら、親が期待する自分の姿と、自分がこうしたいと感じていることが、違うと気づいてしまい、そこでマインドが二つに引き裂かれてしまうからです。

その分裂したマインドが私たちの人格のベースとなっていることに、気づいている人は少ないかもしれません。

私のようなセラピストの視点で見れば、どんな素晴らしい人格者であろうと、逆に人格破綻者であろうと、大した違いはないのです。どちらも極端だからですね。

幼い頃、自分はどんな子供だったのか、可能であれば覚えている人に聞いてみることです。今のあなたとそれほど違いがなければいいのですが…。

もしも、大きく変わってしまったとしたら、その原因を突き止めて、当時の感覚を思い出してみることです。希望があれば、セッションを受けて見るのもいいかもしれませんね。

独り催眠療法

夕べのことです。ベッドに入ってしばらくしたときに、いきなりガーガーガーという非常に耳障りな音がしたと思ったら、目には見えないのですが何かの場面が…。

どうもそこには、自分を含めて3人がいるようで。でも何も見えない、見えないどころか目を開けても真っ暗な状態なのです。

そのうち、小さな男の子の声で、「お母さんが悪い!」と泣きながら訴えているのです。あれ、これはきっと幼いころの自分の声に違いない。

そうしたら、それに答える母親らしき女性の声も聞こえてきました。随分と若い女性の声で、自分の母親の声の質とは違うような印象でしたが、あれが当時の母親の声なのでしょう。

ああ、これって不思議なことに独り催眠療法のような状態になっている、そう理解できました。しばらくして、ようやく薄明るい部屋の景色が見えてきて、ほっと一安心。

6それにしても、未だに小さい頃の心の傷がそのままの状態で残っていたとは…。きっと、この年末年始の間に普段よりも沢山両親と話す時間があったので、古傷が蘇ってきたのでしょう。

潜在意識の中が、すっかりきれいになってしまうということはないようですね。真っ暗な状態が続いたりして、若干怖かったのですが、いやな体験ではありませんでした。

昔の忘れられてしまっていた自分の気持ちに出会えたようで、無料でお手軽に催眠療法を受けた感じとでも言えばいいのでしょうか…。

なかなかこんな体験が勝手にやってくることはないと思います。もしも、可愛らしい当時の幼い自分と出会いたい気持ちがあれば、催眠療法を試してみることをお勧めします。

現実という夢から醒める

私たちは、全員がそれぞれの夢の中にいます。現実という夢です。その夢の中で、あなたは一人の人間として生きているというわけです。

その夢はいつ始まったかというと、人にもよるのですが、大抵は2~3歳くらいの頃から始まりました。ある日突然始まる人もいるだろうし、徐々にやんわりとスタートした人もいるでしょうね。

その日を憶えている人さえいるくらいです。その場合には、大変なショックだろうことは想像に難くありません。

なぜなら、突然自分という個人が出現してしまうのですから。その環境が重苦しく、劣悪なものであればあるほど、いきなり地獄へ突き落とされたと感じるはずです。

ほんの数年前まで、お母さんのお腹の中でゆったりとした理想的な状態でいたものが、何の責任もなくただ最適な環境の中でたゆたっていたはずなのに…。

それなのに、急に自分というちっぽけな存在が現れて、毎日を戸惑いながら、どうすれば安心できるのかを考えながら、自分の居場所がないままに生きていかねばならなくなったのです。

人によっては、自分は大切に育てられたし、素晴らしい家族に恵まれて、これが夢であったならいい夢だと思っているかもしれませんね。

けれども、本当はどんな環境であれ、個人としての自分がいるということは大変な重荷であり、孤独から逃れる真の術はありません。

ただ一つの救いは、自分がいるというのはいかにもリアルっぽいのですが、それが単なる思い込みであり、真実とは程遠い夢だったと気づくことなのです。

それ以外には、どんな救いもありません。この夢の世界でどれだけ活躍しようと、どんなに自分は満たされていると慰めようと、それが悪夢であることには違いないのですから。

そろそろ夢から目覚めることにしませんか?え、いやだって?それが私たち夢の中の住人の本心なのです。なぜなら、夢から醒めたなら私たちは消滅してしまうからです。

でも、安心して下さい。あなたが夢から醒めたときに、消えたあなたの代わりに本当のあなたが、決して死ぬことのないあなたが顕われるだけですから。

禅からの便り

禅の中に、「何もせず、静かに坐っていると、春が来て、草はひとりでに生える」 というのがあります。この言葉を繰り返しハートで感じていると、何ともくつろいだ気分になれます。

上記の言葉は、あらゆる探究という探究を落としたときに、真理は向うからやってきてくれるということを伝えてくれています。

禅にはどんな教義もありません。この世界で唯一、仏陀のメッセージを見事に花咲かせた宗教を超えた真の宗教と言ってもいいでしょうね。

禅やその大元である仏教は、神を持ち出すこともしません。それを早とちりして、神を否定する宗教だと思ってる人もいるかもしれません。

禅は無神論者とは全く異なります。実は神について何かを言えば、人は神を勝手に信じてしまい、それがエゴの餌になることを避ける目的で、仏陀は神に触れなかったのです。

自分の存在の外側に神がいると信じて、それにしがみついてしまうと、真理は遠ざかってしまいます。禅や仏教は、そのために神を持ち出さずにいるのです。

人とどうかかわるべきかといった道徳や倫理を教えるものからは、何としても遠ざかることです。それがいわゆる宗教であれ何であれ…。

人格を向上させるとか、徳を積むなどの一見良さげに思えることも、それがどれほどエゴの好むものかに気づけば、巻き込まれずに済むはずです。

外側への探究をやめて、内側にいる探究者を探究すること。そして、いずれはその探究も消えたとき、春が来て、草はひとりでに生えるのですね。

知識は人を堕落させる

昨日のブログは、ちょっと過激でしたね。きっとついてこれないでしょう。書いている私自身の中でも、そんなのダメだろうという奴がいますから。

でもせっかく年が明けたので、過激シリーズ第二弾を書こうと思います。いろいろなことを知ってる人、つまり物知りな人がいますね。私たちは、知らない人よりも知っている人の方を尊敬しがちです。

知識とは一体何でしょう?学校で習ったことや、人に聞いたことや本で読んだ情報、仕事で学んだことなども含まれるでしょうね。

そういった情報から得た知識というのは、実は本当には知ってるわけではありません。外から来たものだからです。

私たちはそれをあたかも知っていることとして取り扱うクセがついてしまっているのですが、それはただ信じているだけなのです。

知らないからこそ信じることができるのです。本当に知っていることを信じることはできません。だから知識が豊富な人は、それだけ信じている情報が多いということ。

たとえば、あなたの友人が一度も恋愛をした経験がなくて、何千冊も恋愛の本を読んで恋愛についての豊富な知識を持っていたとしても、恋愛を知っているとは判断しないはずです。

逆に一度でも恋愛の経験をすれば、少しは恋愛の何たるかを知ったことになるということです。神についての神聖な本をどれだけ読んで暗記しても、神を知ったことにならないのは当然です。

有神論者も無心論者もまったく同じこと。神は存在すると信じているのか、神は存在しないと信じているのかであって、両者とも単に信じているに過ぎません。

大切なことは、知識というのは単に信じている情報だと気づき、一度信じるのをやめてみるということです。何を信じたとしても、あなたが豊かになるわけではないからです。

逆に、エゴに餌を与えているようなものです。何もせずに、心静かにしていると自分は何も知らないということに気づかされます。

そうすると、その先には自分がいるということもただ信じていることだったという気づきがやってきます。あなたがいないと気づくと、人は最大限の個性が開花し出します。

なぜなら、あなたというエゴがほかの多くのエゴと共通の似たり寄ったりの生を生きているからです。覚醒して人格を落とした人たちの何と個性的なことか。