エゴと至福は裏腹

以前にもこのブログで書いたことがあるのですが、私たちが知っている喜びの三つの側面があります。一つは快感であり、これは肉体のものです。

二つ目は幸福であり、これはマインドのものです。そして三つ目は至福です。これは敢えて表現すれば、霊的なものだということができます。

初めの二つである、快感と幸福という喜びは、どちらも求めることができるものですね。なぜなら、それらはエゴの範疇のものだからです。

エゴの範疇であるこの二つの喜びは、その真逆が一緒についてくるということを憶えておく必要があるのです。つまり、快感を求めれば不快も必ずやってきます。

また幸福を求めるなら、不幸も同時にやってくるのです。これがこの二元性の世界の掟なのです。だから、知性的な人ほど、そうしたものを安易に求めなくなるのです。

一方、エゴは自分の力で求めて手に入るものが大好きなのですが、残念ながら至福だけはいくら努力したところで手に入れることはできないのです。

逆に努力すればするほど、至福から遠ざかってしまうのですから、どうしようもありません。なぜなら、至福はエゴのないときにだけやってきてくれるものだからです。

エゴにとっては、非常に皮肉なものと感じてしまうでしょうね。私は個人的には、最も遠ざかってしまったのが幸福感だと言ってもいいのです。

マインドの範疇である幸福感というものは、思考を駆使しなければやってこなくなってしまうからです。自分が幸福なのか不幸なのかということには、もう随分前から無頓着になってしまいました。

そして、時々短い時間ですが至福を実感することもあるのですが、長くはそこにいられずにいるのは、エゴの邪魔が必ず入るからなのでしょうね。

求めないこと、これが至福がやってくるときの条件なのです。気が付くと、エゴが至福をも求めてしまうために、それを逃してしまうということです。