心身の傷は生きてる証

眼下にある小学校から、運動会の練習風景とその音楽がずっと聞こえてきます。イベント事が嫌いな私は、運動会も好きではなかったけれど、練習はそれなりに真面目にやってたなあ…。

あの頃、どういうわけか主に手足の切り傷やすり傷が絶えることがなく、身体中のどこにも一つの傷もない状態にいつになったらなれるんだろうと思っていました。

そして傷と言えば身体の傷のことを指していたのですが、年頃になると心も傷を負うことがあるらしいということを知るようになるのです。

実際、大人になると身体の傷よりも内面が傷つくことの方が目立ってきますね。身体が少しぐらい傷ついても誰も何とも言わないけれど、心の傷については歌の歌詞でも盛んに表現されるのです。

心が傷つくときというのは、否定されたり嫌われたり、裏切られたり、劣等感を感じたりして自分が惨めだと思うことで起きるのです。

惨めな思いは、傷口が痛むものですね。けれども、その痛みを更に大きくしてしまうのは、それを我慢してしまったときなのです。

痛みだけではそれほど傷は深くなりません。その痛みをあるがままに認めて、しっかり痛がることができれば、傷はそのうち治ってくれるはずなのです。

しかし、その痛みを見て見ぬ振りをしたり、抑圧して感じないようにしたり、そうした我慢を繰り返すと、知らず知らずに心の傷はとても大きなものとなって残るのです。

それは静かなトラウマとなって、その後の人生のいろいろな場面で本人を困らす要因となったりするのです。

身体の傷も心の傷も、生きている証のようなもの。何も問題はないのですから、その痛みをしっかりと味わえばいいのです。

朝起きた時に、「今日も少しくらい傷ついてもいいや!」と自分に言ってあげることですね。