私たちは互いに、性別も年齢も国籍も、そして生まれも育ちも、見た目も性格もバラバラだというところが目立っているのです。
けれども誰もが全体の一部だということの深い理解に至れば、違いが気にならなくなっていくのです。個人だという思いが強ければ、その逆が続くのです。
自分の身体の細胞、指先の爪になってくれた細胞もあれば、網膜となって見ることを可能にしてくれた細胞、そして心臓になった細胞もありますね。
それぞれ違いはありますが、私の身体という全体からすればどれも同じようにその一部であるだけです。ところが、それぞれの細胞が私は一つの細胞として生きているというところを強調したら…。
それは当然、爪よりも網膜になりたかったのにとか、心臓の方が大事に思ってもらえるからよりよかったとか、比較と判断と嫉妬などが無数に生まれるわけです。
個人としての自分をいくら磨いたところで、不満が消えることは決してありません。要は、全体性に気づくこと以外に救われる道はないということ。
全体性とは、部分を足した総和ではないということです。分けることのできないもの、それ以外には実在しないと気づけばいいのです。
私のエゴが活躍し過ぎて、何か変だなと感じた時には、この全体性を思い出すことで寛ぐことができるようになります。
人はみんな同じ、どんな人生であろうと、何が起ころうが、何だっていいんです!個人がいるという間違った思い込みがなくせなくたって、それも全体性からやってきた現象なのですから。