プロテニスプレイヤーの錦織選手が、利き腕である右手首の腱損傷により、今季絶望とのニュースを目にしました。応援していたので、本当に残念でなりません。
しばらくは彼の試合を見ることができないのも残念ですが、本人はもっともっと辛く、そしてきっとじくじたる思いもあるのではないかと思います。いつもギリギリのところで、満身創痍で戦っているのでしょう。
けれども、超一流の選手が大きな怪我をして、復活したときにいろんな意味でより大きな選手になって戻って来た姿をよくみるのです。人は苦境に立ったときに、何か大切なことに気づかされるのですね。
そういうチャンスが今、彼にも訪れているのだと思えばいいのだろうと。常に順風満帆では、気づくことのできないことが人生にはたくさんあります。
私自身も、大病をしたおかげで今の仕事を手にすることができたのです。辛いことの渦中にあるときには、心の余裕を失くしてしまいがちですが、そこから逃げずにいるなら、必ず人は一皮向けた生き方をするようになれるのです。
そして次第に、都合のいいことが起きても、都合の悪いことが起きても、それらにかかずらうことのない生き方ができるようになっていくのでしょう。つまり起きていることとは独立した自己がそこに在るという感覚。
人生を物語として見ることができるなら、起きていることから離れた自分の本質と一つになっていることができるのですね。
災い転じて福となす、というのは、今までを振り返るとそういう流れがありました。外からの災いと、罪悪感や惨めさのような内からくる都合の悪いもの、は別物ですか?逃げるとは?私は、外からの体験みたいなものからは逃げなかったような気がするけど、罪悪感や惨めさからはずっと逃げてきました。結局、それは逃げていたのかな、その体験を心がどう感じているかを見ずに、いい勉強になった、乗り越えた、と頭で納得していただけだった、だから、今まで、変わらなかったんですね。書きながら、逃げるというのは、心をちゃんと見ないことなのかな、と思いました。
その通りだと思います。ご自分でコメントを書きながら、ちゃんと気づかれてますね。
罪悪感や惨めさを抑圧して見ないようにすることがここでいう逃げるということです。抑圧せずに、来たものはすべてありのままに見て、感じてあげられたら、自然と気づきはやってきてくれるはずです。