私たちは自分という存在について、二つの視点から見ています。一つは人から見た自分、つまり客観視した場合の自分です。
そしてもう一つが主観的な視点から見た自分。ここは通常、他人からは見ることができません。だからこそ、隠してしまいがちになるのですね。
会社員のころ、自分や自分の人生はそこそこいいんじゃないかと思っていました。実のところ、それは客観視した場合の自分像だったのです。
都合の悪い部分を隠して、他人の目からはいい部分だけが見えるようにしていたわけです。
一方で人知れずいろいろなことで困っていたのですが、ここは自分だけが把握している主観的な部分なので、他人からは見えません。
この二つがあまりにも乖離しすぎてしまい、とうとうガンを発症してしまったのですが、結果としてそのことで人生を変えることができました。
仕事を辞めて、生き方や考え方などが変わったおかげで、他人からどう見えるかという部分に頓着しなくなったのです。つまり、ほとんどが主観的な自分ばかりと付き合うようになったのです。
乖離していないので、この生き方は楽ですね。自分にも他人にも嘘がなくなり、隠すことがなくなったのです。
さてここからはちょっと分かりづらいかもしれませんが、自分を主観的に見るといっても、自分という人物を見るのであれば、それは真に主観的とは言えないのです。
なぜなら、人物そのものが他人の目を通してでっち上げられたものだからです。結局、客観的な視点によって作られた自己像を主観的に見ているだけなのですね。
瞑想はこのことに気づかせてくれます。瞑想を繰り返すことで、他人という鏡に映った自己像を自分という人物と信じて生きてきたことに気づくのです。
したがって真に主観的に自己を見るなら、そこにはナニモノでもない何とも把握することができない実在だけを見ることになるはずです。
それが私たちの正体なのですね。それは身体の中に収まっているのでもなく、大きさも形もありません。あえて言えば、今この瞬間に見えている全体なのです。
このような見方ができるようになるにつれて、人生を気楽な感じで過ごすことができるようになってくるのです。