物語性を見抜く

私たちが、自分の人生について語る時、「こんな人生を手に入れることができた」というように、肯定的に表現することもできます。

一方では、「こんな人生になってしまった」とか、「こんな人生に気がついたら放り込まれていた」のように、なんとなく否定的に言うこともできますね。

どちらにしても、本当に大切なことは人生の物語性に気づいていられるかどうかということです。なぜなら、その物語は事実ではないからです。

誰がその物語を使ったかと言えば、自分のマインドなのです。ここをどれだけ見抜くことができるかが鍵となるのです。

マインドの潜在意識部分はきっとほとんどが、物語の中に没入したままになっているので、物語性を見抜くとしてもマインドのごく一部だけなのでしょう。

物語性を見抜く力が大きくなればなるほど、マインドの闇に隠れた部分も小さくなっていくのです。

そして最終的には、この世界から物語性が消えて、すべてがあるがままに見えるようになったなら、そのときにはマインドそのものが消えていくのです。

後に残るのは、幸不幸や善悪、正不正などがすべて消えた世界、永続的な至福だけになるということですね。

…という物語の中で、今日もそれを楽しむとしますかね。

 

他人がいない世界はどうだろう?

ちょっと風変わりな映画を観たのですが、若いカップルがアイスランドへの旅行中、ホテルで目覚めると街には誰もいなくなっていたという物語。

いきなり、何処を探しても誰の姿も見つけられないのです。死体もないし、ただ忽然と人間だけが姿を消してしまったのです。

男性の方は、世界は我々のものだと肯定的に捉える部分もあるのですが、女性の方はただ自宅に帰りたいという悲しみと絶望に追い詰められるのです。

しばらくして二人は、快適な住居を見つけてそこに住みつくようになるのです。街に行けば、欲しいものはなんでも手に入るし、大自然の中で最大の自由も感じられる。

けれども結局、最後は女性は自ら命を断ってしまい、男性が一人残されたところでその映画は終わるのですが、少し考えさせられましたね。

自分だったらどうだろうかと…。細かなことを深刻に考えなければ、それはそれでいいのかもしれないとも思えるのです。

特別会いたい人がいるわけでもないし、普段の生活も人とのコミュニケーションは必要最低限度だし。今の自分の生活と大きな違いがないのかも知れないと。

誰もいなくても、当面の食料など生きていくために必要なものは揃っている。もう二度とお金の心配をする必要もない。

死にたくなったら誰の目も気にすることなく死ぬことができる。ただ、5年くらい経ったら、自給自足の生活をしなければならなくなりそう。

そんなことを考えながら眠りにつき、朝目が覚めて外を見たら近くの小学校から元気な子供の声が聞こえて、ああみんな消えてないなと一安心したと同時にちょっとだけ残念な気持ちもしたのでした。

退屈の向こう側

あなたが退屈から逃げださなかったら、それと共に生きはじめたら、それを受け容れはじめたら、歓迎しはじめたら・・それが瞑想の何たるかだ。退屈を迎え入れること、自らそのなかへ入っていくこと。それが来るのを待つのではなく、それを探し求めること。

by osho

まずもって、日々退屈を感じて生きている人の方が少ないでしょうね。それは退屈を感じないように、生きているからです。

たまたま多忙だったり、たまたま用事があるのではなく、ひとえに退屈を感じないように、退屈から逃げ回っているだけなのです。

退屈はエゴにとって、窒息するようなものだからです。息苦しくてどうしようもなくなるのです。だから、とにかく何かすることを探し出してくるのです。

老人になって、否応無く退屈することはあっても、それではもう手遅れかもしれません。いや本当はそんなことはないのですが、退屈は敵だと思い込んでいるに過ぎません。

退屈は私たちの本質を隠すおおいのようなもの。本質を見出すことができないようにするために、退屈という恐怖で包まれているのです。

もちろん本質を見つけてしまったら、そのときにはエゴはゴミ箱行きだと分かっているからです。だから是が非でも本質から離れていなければならないのです。

もしも退屈だなと感じることがあるなら、これからはチャンス到来と思うようにして下さい。そして瞑想を始めればいいのです。

退屈すると、あれこれ考え出してしまうかもしれませんが、そのときこそ瞑想するようにするのです。

退屈を突破できれば、いずれは真実を見ることができるはずですね。

身体の痒みで気づくこと

記憶が正しければ15歳くらいのころからですが、お風呂で冷水を浴びる習慣があるのです。湯船で温まってから冷水のシャワーを浴びるというのを繰り返すのですが、やはり冬場はキツイですね。

けれども、一年通してやっていることなので、それをやらずに風呂から出て風邪をひいたらいやだなというのがあって、どれほど寒くても欠かさずにやるのです。

もちろん風呂から出た後は気持ちもいいし、かえって身体がポカポカするのでやっぱりやめられないのです。そして他にもいいことがあるのです。

実は毎年冬になると、空気が乾燥するせいで皮膚のあちこちが痒くなるのですが、それが今年は例年以上に激しくて閉口しています。

ところが、風呂で冷水を身体にかけてあげると、その痒みがス〜っと消えていくのです。そしてそれはしばらくの間続いてくれます。

きっと痒みよりも冷たさによるショックの方が強烈なため、脳がそっちの方に注意を向けるからなのだと思うのです。

そして痒みは勝手にやってくるものなのでコントロールできないのですが、冷水をかけるのは自らやっていることなので、コントロール可能だし、冷たさは一過性のものと分かっているので、気分が楽なのでしょうね。

エゴというのは、コントロールできないものによりストレスを感じてしまうという傾向を持っていますので、そういうことになるのでしょう。

もう一つ、背中の辺りが痒いのは、背中を撫でて欲しいという幼い頃の寂しさが理由だということもあるようです。

そのことを分かってあげるだけでも、少しはその痒さが和らぐような気がします。

対処するのをやめてみる

マインドはいつも、ここから何処かへと行こうとしているのです。何処かは分からなくても、とにかくここではない何処かへと向かわせようとするのです。

ここにいるだけではダメだと感じるのですね。何処かへ行って何かをしなければという強迫観念のようなものがあるのです。

この何かをしなければという思いも、非常に根深いものがありますね。何もしなくていいんだということが決して分からないのですから。

つまりそれは、このままではダメだということなのです。前へ前へと進み続けなければ、ズブズブと底なし沼に沈み込んでしまうと信じているのです。

決して走ることをやめられないのです。常に足踏みをし続けなければ、足が止まってしまったら、奈落の底まで落ちて行ってしまうと感じているのです。

だからこそマインドにとって一番いいのは、相手が何であれそれと闘い続けること。闘っていれば、マインドは生きていられると思うのですね。

闘うまでいかずとも、いつも何かの問題を作ってそれを対処するということを繰り返すことになるのです。

対処することで、実はその問題としっかり向き合わずに済むからです。見たくないものを見ずに済ますという生き方ですね。

こうしたマインドの特性を深く深く理解することで、そこから少しずつ脱出することができるようになっていくはずです。

マインドの無駄なエネルギー浪費をやめれば、余剰したエネルギーを愛の方へと向かわすこともできるのですね。

再利用と断捨離

近くの公園に散歩に行ったのですが、池の周りを歩く細道にきれいに枯葉が敷き詰められていたのです。

すぐに、ぬかるんだ道を歩きやすくするために、管理する人たちがやってくれたんだと分かったのですが、とてもいい有効活用だなと感心しました。

昨年の晩秋のころに、落ち葉だらけになった公園の床を気持ちよく歩いた記憶があるのですが、あの枯葉を拾い集めて捨てずに取っておいてくれたのですね。

私自身は、もういらないと感じたらすぐに捨ててしまうタイプなので、枯葉を捨てずにとっておくなどということは到底考えられないのです。

今使わないものでも、後々明確な使い道があると分かっているようなものは捨てずに取っておくのは、賢いやり方ですね。

けれども、使い道が分からないけれどなんとなく捨てるのはもったいないという理由で取っておくのは、考えものです。

断捨離などという言葉がいつの頃からか言われるようになりましたが、部屋の中に溢れ返るくらいに物が置いてあったりすることへの警告ですね。

部屋の中の様子は、その住人のマインドの中身を物語っていると考えられるのです。物が捨てられずに多くあるのは、執着や不安の大きさを表してると言えます。

癒しを進めていくと、あるとき突然のように物を大量に処分しだすクライアントさんを沢山見て来ました。

あなたの大事な居住スペースは、快適な空間を維持できていますか?部屋の中をぐるりと見回して、今不要なものが目に入ったならすぐに処分することですね。

気づいていることだけが在る

最初で最後のステップは、自分が誰であるかを知ること、目覚めることだ。

by osho

このブログでずっと話題にしていることを一行で表現するとしたら、↑のようになるのでしょうね。

自分は誰なのか?というよりも、自分とは何なのか?の方がよりニュアンス的には合っていると思います。

誰かと言ってしまうと、人間に限定されてしまうため、それはどんなマインドを持ったどんな経歴の人なのかという意味になってしまうかもしれないからです。

そういうことではなく、もっともっと原点に立ち帰って、一体これは何なのだろう?というこの上なく素朴な疑問になればいいのです。

気がついたら身体の中にいるような感じがするし、気がついたら世界と分離しているし、気がついたら苦しいことがいっぱいあるし…。

その中心にいるのがこの自分と感じているのです。この自分という一人称的な何かは、単に気づいているということ。これがもっともシンプルな表現です。

気づいている誰かがいるというように、すぐに複雑にしてしまう癖があるだけで、本当は非常にシンプルなのです。

つまり誰もいないのです。ただ在るのは気づきだけ。

宇宙的同時存在性

一度理解したら、あなたはくつろぐ–。あなたは<宇宙的同時存在性>のなかにくつろぐ。私が「自然でありなさい」と言うときに意味することはそれだ。自我は不自然な欲望をあなたに持ち込む。それはあなたの気を狂わせる。生は単純だ。が、単純であるためには、人は無目的にならねばならない。

by osho

自分とは、この世界この宇宙の中にありながらも、そこから分離独立した個人としての存在だという、しつこい思い込みで成り立っています。

真実はそうではないので、その間違った思い込みを維持していくためには、さまざまな努力や工夫が必要になってくるのです。

それをやっているのが自我(エゴ)というわけです。私たちが独自の目的を持とうと常にしているのはそのためです。

独自の目的のために生きるなら、その生自体も独自のものとなると信じているのです。独自の欲望、独自の考え方、こうした他者との違いが決定的に大切なのです。

人と同じではいやというのは、そういうことですね。そうやって、生を複雑なものへと変えていくのです。

自分が特別だと思えるのなら、自我はどんな手段でもいとわないのです。大金持ちになったり、首相になったり、難しい病気になってみたり、はたまた類い稀な善人にもなろうとします。

真実はとても単純です。思考では把握できないくらいにシンプルなのです。だから自我にとっては苦手なのです。

それが何であれ、特別ということはありません。すべては無から立ち上がって来た現象であり、何もかも境界があるかのように見えるだけです。

自我の目が落ちたなら、宇宙的同時存在だけが残るということですね。

 

マインドは気が触れている

osho がよく言うのですが、マインドとは群衆のようなものだと。群衆というのは実体はないのですが、なんとなくまとまってなにかの機能を果たすようなもの。

マインドもまったく実体というものは存在しません。ただ夥しい数の思考が集まって、真実とは程遠い信念のもとに機能しているのです。

マインドあるいは思考の根っこにあるものとは、分裂です。全体は分断されて存在しているという間違った見方をしているのです。

マインド自体が分裂しているために、それを外側へと投影することによってこの世界も分裂していると思い込むのです。

だから正気のマインドというものはないのです。ある一定レベルにおいて、マインドは病んでいるのです。

いわゆる正気と思われるマインドであっても、必ず無数の人格のかけらのようなものに分裂しています。これがごく普通のマインドの状態です。

その分裂の状態が極端になってくれば、精神疾患があるかのように見え出すのです。ただそれだけのこと。

だから、神経症的な人を深く観察することは、マインドのメカニズムを理解する上で非常に有効なわけです。

極端な状態というのは、それ自体を隠すことができなくなる傾向があるからです。私自身、自分のマインドを長い期間観察してきたおかげで、分かったことも沢山あります。

対象をしっかり見ることによって、それとの距離ができるのです。そうやってしか、同一化からはずれる術はありません。

気が触れたマインドを後生大事に自分だと信じたまま生きて死ぬのか、それともしっかり観照することでマインドから離れるのかは、あなた次第ですね。

無と無の狭間に…

私たちの誰もが例外なく、無からやって来て、そしてまた無へと戻っていく。人間の生はその間に位置する、たかだか80年くらいの夢のようなもの。

無という無限と比べたら、(本当は比べようもないのだけれど…)塵ほどのものでもないくらいに儚いものです。

そういうスケールですべてを眺めて見ると、日々の不安とか苦悩、あるいは憤りとか、どれほど陳腐で取るに足りないものかが分かります。

とは言うものの、そうしたマインドのトリックに飲み込まれてしまったなら、しばらくはジタバタするしかありません。

ここでの話しなど単なる理想論だと思えてくるのですから。それでも少し雑念の波が去ったときには、すべては一過性のものだということを思い出すことです。

どんなことであれ、いつかは終わりを迎えるということ。果てしなく長く続くように見えたとしても、終わってみれば一瞬だったと分かるのです。

そして、マインドが静かになったときには、必ず生の中でも無が立ち込めているということに気づくかもしれません。

生は無と無の狭間ではあるけれど、背景として常に無があるのです。そしてそれだけが実在なのですね。