憲法には、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と記されています。
つまり私たちの生活は、大自然の中でシンプルに生きる野生動物のようなものから最も離れているように感じますね。
自然というのは厳しいものです。弱いものは強いものの餌食にされるし、寒さや飢えをしのげなければ、息絶えるしかありません。
足の骨を一本骨折しただけでも死を覚悟しなければなりません。人間のように病院に行けば、治してもらえるなどということもありません。
そういう意味からすると、私たち人間は特別に恵まれていると考えることができます。けれども少し深く見てみると、大切なことには野生性がそのまま残っているのです。
他の誰かに依存したまま、自分の人生を満たされたものにすることはできません。どんな泣き言もここには通用しない厳しさがあります。
逆に考えれば、誰かの人生を救いたいと強く願ったところで、自分以外の誰の人生も救うことなどできません。この事実も過酷ですね。
あるいは誰もがいつかは死ぬ運命にあり、そのことを知っていながらどれほど拒否しようともそこから逃れる術はないのです。
そういった野生性の部分から目を逸らさずに生きることができれば、ある種の覚悟が据わるのです。
そして健康で文化的な生活のベースにある生の残酷さが、愛の残酷さにも通ずるものがあると分かりますね。
誰かの人生を救いたいと強く願ったところで、自分以外の誰の人生も救うことなどできない...という部分は新鮮でした。
いままでは、救って欲しいとそればかりの側でしかなかったから。
本当に…
自分でどうにか気づいていくしかないのですね。
救って欲しいと願う側は満たされるということがなく、救ってあげたいと願う側は満たされたいという気持ちが消えるのです。そして、防衛からではなく、祈りの感覚に入ることができますね。