わたしが勝手に人類を二種類に分類するとしたら、それは国籍でも性別でも信じている宗教でもなく、あるいは善人か悪人かでもありません。
一つ目は、人生という物語に深く翻弄されてるが故に、100%物語の住人と化してしまっている人。当然、それが物語であることにも気づけません。
もう一方は、人生という物語の内容がどれほど悲惨で苦悩するようなものであっても、それを物語と見抜いている人。
なぜこのような分け方をするかと言うと、それ以外の分類が無数にあるとしても、そのすべてが物語の中の話しになってしまうからです。
物語の中に全面的にいるのか、それともそれを見る側になれるのかの両者には決定的な違いがあります。次元が違うと言ってもいいくらいです。
それは映画で言えば、スクリーンに映し出される映像の中の存在と、映像を映し出すスクリーンとの次元の違いと同じなのです。
人生を物語だと見抜いたとしても、人生がそこで終わってしまうわけではなく、その後も普段通りの人生は続いていくのですが、気楽さが決定的に違ってくるのです。
物語と密着していれば、必ずや深刻さが滲み出てくるのです。なぜなら、起きてくることの一つひとつに翻弄されて、それと戦わねばならないからです。
戦うのをやめて下さいとクライアントさんにお伝えするのも、物語を見る側になるための第一歩だからなのです。
自分以外の誰かになろうと必死になっていたりしたら、不可能を可能にしようとして絶え間ない戦いの中で思考まみれになって死んでいくことになるのです。
全部丸ごとひっくるめて物語だということが腑に落ちた時、すべてはあるがままでOKだと分かるのです。